而(しか)るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此(これ)を申す。此の法門弘通せんには「如来現在猶多怨嫉況滅度後」「一切世間多怨難信」と申して、第一のかたきは国主並びに郡郷等の地頭・領家・万民等なり。此又第二第三の僧侶がうったへについて、行者を或は悪口し、或は罵詈(めり)し、或は刀杖等云云。
而(しか)るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂(た)れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋(いか)りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此の人東条郡を天照太神の御栖(おんすみか)と定めさせ給ふ。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東条の郡にすませ給ふか。例せば八幡大菩薩は昔は西府にをは(御座)せしかども、中比(なかごろ)は山城国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖(す)み給ふ。これもかくのごとし。
日蓮は一閻浮提(いちえんぶだい)の内、日本国安房国東条郡に始めて此の正法を弘通し始めたり。随(したが)って地頭敵(かたき)となる。彼の者すでに半分ほろびて今半分あり。領家はいつわりをろ(癡)かにて、或時は信じ或時はやぶる。不定なりしが日蓮御勘気を蒙(こうむ)りし時すでに法華経をすて給ひき。日蓮先よりげざん(見参)のついでごとに難信難解(なんしんなんげ)と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶(たす)けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹(じゅうらせつ)定んで偏頗(へんぱ)の法師(ほっし)とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗(へんぱ)はなけれども、尼御前我が身のとが(咎)をばしらせ給はずしてうら(恨)みさせ給はんずらん。此の由をば委細に助阿闍梨(すけのあじゃり)の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参(げんざん)に入れさせ給ふべく候。
(平成新編0764~0765・御書全集0906~0907・正宗聖典----・昭和新定[2]1132~1134・昭和定本[1]0868~0869)
[文永12(1275)年02月16日(佐後)]
[真跡・愛知長福寺(10%未満現存) 身延曾存]
[※sasameyuki※]