予(よ)日本の体(てい)を見るに、第六天の魔王智者の身に入りて、正師を邪師となし善師を悪師となす。経に「悪鬼其(そ)の身に入る」とは是(これ)なり。日蓮智者に非ずと雖(いえど)も、第六天の魔王我が身に入らんとするに、兼(か)ねての用心深ければ身によせつけず。故に天魔力及ばずして、王臣を始めとして、良観等の愚癡(ぐち)の法師原(ほっしばら)に取り付ひて日蓮をあだむなり。然(しか)るに今時は師に於て正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知って、邪悪の師を遠離(おんり)し、正善の師に親近(しんごん)すべきなり。設(たと)ひ徳は四海に斉(ひと)しく、智慧は日月に同じくとも、法華経を誹謗するの師をば悪師・邪師と知って、是(これ)に親近(しんごん)すべからざる者なり。或経に云はく「若し誹謗の者には共に住すべからず、若し親近(しんごん)し共に住せば即(すなわ)ち阿鼻獄に趣(おもむ)かん」と禁(いまし)め給ふ是なり。いかに我が身は正直にして、世間出世の賢人の名をと(取)らんと存ずれども、悪人に親近(しんごん)すれば、自然に十度に二度三度其の教へに随ひ以て行くほどに、終(つい)に悪人になるなり。釈に云はく「若し人本(もと)悪無きも、悪人に親近(しんごん)すれば後必ず悪人と成り、悪名天下に遍(あまね)からん」云云。所詮其の邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師なり。涅槃経に云はく「菩薩、悪象等に於ては心に恐怖(くふ)すること無かれ、悪知識に於ては怖畏(ふい)の心を生ぜよ。悪象の為に殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」と。法華経に云はく「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に」等云云。先々(さきざき)申し候如く、善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)・達磨(だるま)・慧可(えか)・善導・法然、東寺の弘法、園城寺の智証、山門の慈覚、関東の良観等の諸師は、今経の「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)」の金言を読み候には「正直捨実教(しゃじっきょう)但説方便教(たんせつほうべんきょう)」と読み、或は「於諸経中最在其上(おしょきょうちゅうさいざいごじょう)」の経文をば「於諸経中最在其下(ごげ)」と、或は「法華最第一」の経文をば「法華最第二第三」と読む。故に此等の法師原(ほっしばら)を邪悪の師と申し候なり。
(平成新編0585~0586・御書全集1340~1341・正宗聖典----・昭和新定[1]0846~0847・昭和定本[1]0621~0622)
[文永09(1272)年04月13日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]