而(しか)るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし。華厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす。天王の太子、我が父は侍(さむらい)とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は、釈尊を下して盧舎那(るしゃな)・大日等を本尊と定む。天子たる父を下して種姓(すじょう)もなき者の法王のごとくなるにつけり。浄土宗は、釈迦の分身(ふんじん)の阿弥陀仏を有縁の仏とをもって、教主をすてたり。禅宗は、下賎の者一分の徳あって父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す。此(これ)皆、本尊に迷へり。例せば、三皇已前に父をしらず、人皆禽獣(きんじゅう)に同ぜしがごとし。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。故に妙楽云はく「一代教の中未(いま)だ曾(かつ)て父母の寿(いのち)の遠きことを顕はさず。若し父の寿の遠きことを知らざれば、復(また)父統(ふとう)の邦(くに)に迷ふ。徒(いたずら)に才能と謂ふも全く人の子に非ず」等云云。妙楽大師は唐の末、天宝年中の者なり。三論・華厳・法相・真言等の諸宗、並びに依経を深くみ(見)、広く勘(かんが)へて、寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり。「徒謂才能(といさいのう)」とは、華厳宗の法蔵・澄観、乃至真言宗の善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)等は才能の人師なれども子の父をしらざるがごとし。
(平成新編0554・御書全集0215・正宗聖典0111~0112・昭和新定[1]0801~0802・昭和定本[1]0578~0579)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]