仏には三十二相そなはり給ふ。一々の相皆百福荘厳なり。肉髻(にくけい)・白毫(びゃくごう)なんど申すは菓(このみ)の如し。因位の華の功徳等と成りて三十二相を備へ給ふ。乃至無見頂相と申すは、釈迦仏の御身は丈六なり。竹杖外道(ちくじょうげどう)は釈尊の御長(みたけ)をはからず、御頂を見奉らんとせしに御頂をば見たてまつらず。応持菩薩も御頂を見たてまつらず。大梵天王も御頂を見たてまつらず。これはいかなるゆへ(故)ぞとたづぬれば、父母・師匠・主君を頂を地につけて恭敬(くぎょう)し奉りしゆへに此の相を感得せり。
乃至梵音声(ぼんのんじょう)と申すは仏の第一の相なり。小王・大王・転輪王等此の相を一分備へたるゆへに、此の王の一言に国も破れ国も治まるなり。宣旨と申すは梵音声の一分なり。万民の万言、一王の一言に及ばず。三墳五典(さんぷんごてん)なんど申すは小王の御言なり。此の小国を治め乃至大梵天王三界の衆生を随ふる事、仏の大梵天王帝釈等をしたがへ給ふ事もこの梵音声なり。此等の梵音声一切経と成りて一切衆生を利益す。其の中に法華経は釈迦如来の御志を書き顕はして此の音声を文字と成し給ふ。仏の御心はこの文字に備はれり。たとへば種子と苗と草と稲とはか(変)はれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ(相)まい(進)らせたりとおぼしめすべし。此の志佐渡国までおくりつかはされたる事すでに釈迦仏知(し)ろし食(め)し畢(おわ)んぬ。実に孝養の詮なり。恐々謹言。
(平成新編0621・御書全集1122~1123・正宗聖典----・昭和新定[1]0891~0892・昭和定本[1]0666~0667)
[文永09(1272)年(佐後)]
[古写本・日興筆 北山本門寺]
[※sasameyuki※]