『開目抄 上』(佐後)[曾存] | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし。定んで天の御計らひにもあづかるべしと存ずれども、一分のしるし(験)もなし。いよいよ重科に沈む。還って此の事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか。又諸天善神等の此の国をすてゝ去り給へるか。かたがた疑はし。而るに、法華経の第五の巻、勧持品(かんじほん)の二十行の偈は、日蓮だにも此の国に生まれずば、ほとを(殆)ど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗(なゆた)の菩薩は提婆(だいば)が虚誑罪(こおうざい)にも堕ちぬべし。経に云はく「有(う)諸無智人、悪口罵詈(あっくめり)等」「加刀杖瓦石(かとうじょうがしゃく)」等云云。今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加へらるゝ者ある。日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ。「悪世中比丘邪智心諂曲(びくじゃちしんてんごく)」と。又云はく「与白衣説法為世所恭敬如六通羅漢(よびゃくえせっぽういせしょくぎょうにょろくつうらかん)」と。此等の経文は、今の世の念仏者・禅宗・律宗等の法師なくば、世尊は又大妄語の人。「常在大衆中、乃至向国王大臣婆羅門居士(ばらもんこじ)」等、今の世の僧等、日蓮を讒奏(ざんそう)して流罪せずば此の経文むなし。又云はく「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」等云云、日蓮法華経のゆへに度々ながされずば、数々の二字いかんがせん。此の二字は、天台・伝教もいまだよみ給はず。況んや余人をや。末法の始めのしるし「恐怖(くふ)悪世中」の金言のあふゆへに、但日蓮一人これをよめり。例せば世尊、付法蔵経に記して云はく「我が滅後一百年に、阿育大王という王あるべし」と。摩耶(まや)経に云はく「我が滅後六百年に、竜樹菩薩という人南天竺に出づべし」と。大悲経に云はく「我が滅後六十年に、末田地(までんち)という者地を竜宮につ(築)くべし」と。此等皆仏記のごとくなりき。しからずば誰か仏教を信受すべき。而るに仏、恐怖悪世・然後(ねんご)未来世・末世法滅時・後五百歳なんど、正・妙の二本に正しく時を定めたまふ。当世、法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。南三北七・七大寺等、猶(なお)像法の敵の内、何に況んや当世の禅・律・念仏者等は脱(のが)るべしや。経文に我が身普合(ふごう)せり。御勘気をかほ(蒙)れば、いよいよ悦びをますべし。例せば小乗の菩薩の未断惑(みだんなく)なるが願兼於業(がんけんおごう)と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かた(形)のごとく其の業を造りて、願って地獄に堕ちて苦しむに同じ。苦に代はれるを悦びとするがごとし。此も又かくのごとし。当時の責めはた(堪)うべくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦ぶなり。
(平成新編0540~0542・御書全集0202~0203・正宗聖典0094~0095・昭和新定[1]0782~0784・昭和定本[1]0559~0561)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]