此に予愚見をもって前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、其の相違多しといえども、先づ世間の学者もゆるし、我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏(さぶつ)・久遠実成(くおんじつじょう)なるべし。
法華経の現文を拝見するに、舎利弗は華光(けこう)如来、迦葉(かしょう)は光明(こうみょう)如来、須菩提(しゅぼだい)は名相(みょうそう)如来、迦旃延(かせんねん)は閻浮那提金光(えんぶなだいこんこう)如来、目連は多摩羅跋栴檀香仏(たまらばつせんだんこうぶつ)、富楼那(ふるな)は法明如来、阿難は山海慧自在通王仏(せんかいえじざいつうおうぶつ)、羅■(=睡-垂+侯)羅(らごら)は蹈七宝華(とうしっぽうけ)如来、五百・七百は普明(ふみょう)如来、学無学二千人は宝相如来、摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)・耶輸陀羅比丘尼(やしゅだらびくに)等は一切衆生喜見如来、具足(ぐそく)千万光相如来等なり。此等の人々は法華経を拝見したてまつるには尊きやうなれども、爾前の経々を披見の時はけを(興)さむる事どもをほし。其の故は仏世尊は実語の人なり、故に聖人(しょうにん)・大人(だいにん)と号す。外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申すは実語につけたる名なるべし。此等の人々に勝れて第一なる故に世尊をば大人とは申すぞかし。此の大人「唯(ただ)一大事の因縁を以て故に世に出現したまふ」となのらせ給ひて「未だ真実を顕はさず」「世尊は法久しくして後要(かなら)ず当(まさ)に真実を説くべし」「正直に方便を捨て」等云云。多宝仏証明を加へ、分身舌を出だす等は、舎利弗が未来の華光如来、迦葉が光明如来等の説をば誰の人か疑網(ぎもう)をなすべき。
(平成新編0528~0529・御書全集0190~0191・正宗聖典0079~0080・昭和新定[1]0764~0765・昭和定本[1]0542~0543)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]