華厳宗と申す宗は、「華厳経の円と法華経の円とは一なり。而(しか)れども法華経の円は華厳の円の枝末」と云云。法相・三論も又々かくのごとし。
天台宗、彼の義に同ぜば別宗と立てゝなにかせん。例せば法華・涅槃は一つ円なり。先後に依って涅槃尚をと(劣)るとさだむ。爾前の円、法華の円を一とならば、先後によりて法華豈(あに)劣らざらんや。詮ずるところ、この邪義のを(起)こり「此の妙彼(か)の妙円実(えんじつ)異ならず、円頓の義斉(ひと)し、前の三を麁(そ)と為(な)す」等の釈にばかされて起こる義なり。
止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。又二の巻の四種三昧は多分は念仏と見へて候なり。「源濁れば流れ清からず」と申して、爾前の円と法華経の円と一と申す者が、止観を人によませ候へば、但念仏者のごとくにて候なり。但し止観は迹門より出でたり、本門より出でたり、本迹に亘(わた)ると申す三つの義いにしえ(古)よりこれあり。これは且(しばら)くこれをを(置)く。
「故に知んぬ一部の文共に円乗開権の妙観を成(じょう)ず」と申して、止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。
爾前の経々をひき、乃至外典を用ひて候も爾前・外典の心にはあらず。文をばか(借)れども義をばけづ(削)りす(捨)てたるなり。「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して、文殊問(もんじゅもん)・方等・請観音(しょうかんのん)等の諸経を引きて四種を立つれども、心は必ず法華経なり。「諸文を散引して一代の文体(もんたい)を該(か)ぬれども、正意は唯二経に帰す」と申すはこれなり。
(平成新編0465~0466・御書全集1273~1274・正宗聖典----・昭和新定[1]0702~0703・昭和定本[1]0488~0489)
[文永08(1271)年05月(佐前)]
[真跡・中山法華経寺(100%現存"六紙中、前二紙・後尾一紙缺?")]
[※sasameyuki※]