総じて御心へ候へ。法華経と爾前と引き向けて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節の事に三つの様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗(ほぼ)夢の如く一・ニをば申せども、第三をば申さず候。第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了(お)へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。五五百歳とは是なり。但し此の法門の御論談は余は承らず候。彼は広学多聞(たもん)の者なり。はゞか(憚)りはゞかりみ(見)たみたと候ひしかば、此の方のま(負)けなんども申しつけられなばいかん(如何)がし候べき。但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは、さてをき候ひぬ。六十巻にな(無)しなんど申すは天のせめなり。謗法の科(とが)の法華経の御使ひに値ひて顕はれ候なり。
(平成新編1284~1285・御書全集0981・正宗聖典1034・昭和新定[3]1923・昭和定本[2]1589~1590)
[弘安01(1278)年10月01日"建治03(1277)年10月01日""建治03(1277)年11月01日"(佐後)]
[真跡・中山法華経寺(100%現存)、古写本・信伝筆"日澄筆" 北山本門寺]
[※sasameyuki※]