所詮、智者は八万法蔵をも習ふべし、十二部経をも学すべし。末代濁悪世の愚人は、念仏等の難行易行等をば抛(なげう)ちて、一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。日輪東方の空に出でさせ給へば、南浮(なんぶ)の空皆(みな)明らかなり。大光を備へ給へる故なり。蛍火は未(いま)だ国土を照らさず。宝珠は懐中に持ちぬれば、万物皆ふらさずと云ふ事なし。瓦石(がしゃく)は財(たから)をふらさず。念仏等は法華経の題目に対すれば、瓦石と宝珠と、蛍火と日光との如し。我等が昧(くら)き眼を以て蛍火の光を得て、物の色を弁(わきま)ふべしや。旁(かたがた)凡夫の叶ひがたき法は、念仏真言等の小乗権経なり。又、我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり。此の娑婆無仏の世の最先に出でさせ給ひて、一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり。東西十方の諸仏菩薩も皆此の仏の教へなるべし。譬へば、皇帝已前は人、父をしらずして畜生の如し。尭王(ぎょうおう)已前は四季を弁へず、牛馬の癡(おろ)かなるに同じかりき。仏世に出でさせ給はざりしには、比丘・比丘尼の二衆もなく、只男女二人にて候ひき。今比丘・比丘尼の真言師等、大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し、念仏者等が阿弥陀仏を一向に持ちて釈迦如来を抛ちたるも、教主釈尊の比丘・比丘尼なり。元祖が誤りを伝へ来たるなるべし。
(平成新編0439・御書全集0883~0884・正宗聖典1032・昭和新定[1]0663~0664・昭和定本[1]0466)
[文永07(1270)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]