故七郎五郎殿は当世の日本国の人々にはに(似)させ給はず。をさな(幼)き心なれども賢き父の跡をおひ、御年いまだはたち(二十)にも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて仏にならせ給ひぬ。無一不成仏とは是なり。乞ひ願はくは悲母我が子を恋しく思(おぼ)し食(め)し給ひなば、南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひて、故南条殿・故五郎殿と一所に生まれんと願はせ給へ。一つ種は一つ種、別の種は別の種。同じ妙法蓮華経の種を心にはら(孕)ませ給ひなば、同じ妙法蓮華経の国へ生まれさせ給ふべし。三人面(おもて)をならべさせ給はん時、御悦びいかゞうれ(嬉)しくおぼしめすべきや。
抑(そもそも)此の法華経を開いて拝見仕(つかまつ)り候へば「如来則ち、衣を以て之を覆ひたもふ為(べ)し。又、他方の現在の諸仏に護念せらるゝことを為(え)ん」等云云。経文の心は東西南北八方、並びに三千大千世界の外、四百万億那由他の国土に十方の諸仏ぞくぞくと充満せさせ給ふ。天には星の如く、地には稲麻(とうま)のやうに並居(なみい)させ給ひ、法華経の行者を守護せさせ給ふ事、譬へば大王の太子を諸の臣下の守護するが如し。但四天王一類のまぼ(守)り給はん事のかたじけなく候に、一切の四天王・一切の星宿・一切の日月・帝釈・梵天等の守護せさせ給ふに足るべき事なり。其の上一切の二乗・一切の菩薩・兜率(とそつ)内院の弥勒菩薩・迦羅陀(からだ)山の地蔵・補陀落(ふだらく)山の観世音・清涼(しょうりょう)山の文殊師利菩薩等、各々眷属を具足して法華経の行者を守護せさせ給ふに足るべき事に候に、又かたじけなくも釈迦・多宝・十方の諸仏のて(手)づからみづ(自)から来たり給ひて、昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。
かゝるめでたき御経を故五郎殿は御信用ありて仏にならせ給ひて、今日は四十九日にならせ給へば、一切の諸仏霊山(りょうぜん)浄土に集まらせ給ひて、或は手にすへ、或は頂をなで、或はいだき、或は悦び、月の始めて出でたるが如く、花の始めてさけるが如く、いかに愛しまいらせ給ふらん。
抑(そもそも)いかなれば三世十方の諸仏はあながちに此の法華経をば守らせ給ふと勘へて候へば、道理にて候ひけるぞ。法華経と申すは三世十方の諸仏の父母なり、めのと(乳母)なり、主にてましましけるぞや。かえる(蛙)と申す虫は母の音(こえ)を食とす。母の声を聞かざれば生長する事なし。からぐら(迦羅求羅)と申す虫は風を食とす。風吹かざれば生長せず。魚は水をたのみ、鳥は木をすみか(栖)とす。仏も亦かくの如く、法華経を命とし、食とし、すみかとし給ふなり。魚は水にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。鳥は木にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。月は水にやどる、仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。
(平成新編1509~1510・御書全集1570~1571・正宗聖典1031・昭和新定[3]2169~2171・昭和定本[2]1812~1814)
[弘安03(1280)年10月24日(佐後)]
[真跡・蒲郡長存寺外二ヶ所(10%以上40%未満現存)]
[※sasameyuki※]