法華経第一の巻方便品に云はく「世尊は法久しくして後、要(かなら)ず当に真実を説きたまふべし」と。又云はく「正直に方便を捨てゝ、但無上道を説く」云云。第五の巻に云はく「唯、髻中(けいちゅう)の明珠(みょうじゅ)」と。又云はく「独り王の頂上に、此の一つの珠有り」と。又云はく「彼の強力の王の、久しく護れる明珠を、今乃(すなわ)ち之を与ふるが如し」等云云。文の心は日本国に一切経わたれり、七千三百九十九巻なり。彼々の経々は皆法華経の眷属なり。例せば日本国の男女の数四十九億九万四千八百二十八人候へども、皆一人の国王の家人たるが如し。一切経の心は愚癡(ぐち)の女人なんどの唯一時に心う(得)べきやうは、たとへば大塔をくみ候には先づ材木より外に足代(あししろ)と申して多くの小木を集め、一丈二丈計りゆ(結)ひあ(上)げ候なり。かくゆ(結)ひあ(上)げて、材木を以て大塔をくみあげ候ひつれば、返って足代を切り捨て大塔は候なり。足代と申すは一切経なり、大塔と申すは法華経なり。仏一切経を説き給ひし事は法華経を説かせ給はんための足代なり。正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)と申して、法華経を信ずる人は阿弥陀経等の南無阿弥陀仏、大日経等の真言宗、阿含経等の律宗の二百五十戒等を切りすて抛(なげう)ちてのち法華経をば持ち候なり。大塔をくまんがためには足代大切なれども、大塔をくみあげぬれば足代を切り落とすなり。正直捨方便と申す文の心是なり。足代より塔は出来して候へども、塔を捨てゝ足代ををが(拝)む人なし。今の世の道心者等、一向に南無阿弥陀仏と唱へて一生をすごし、南無妙法蓮華経と一返も唱へぬ人々は大塔をすてゝ足代ををがむ人々なり。世間にかしこくはかなき人と申すは是なり。
(平成新編1509・御書全集1569~1570・正宗聖典1031・昭和新定[3]2168~2169・昭和定本[2]1811~1812)
[弘安03(1280)年10月24日(佐後)]
[真跡・蒲郡長存寺外二ヶ所(10%以上40%未満現存)]
[※sasameyuki※]