又律宗の良観が云はく、法光寺殿へ訴状を奉る其の状に云はく、忍性(にんしょう)年来(としごろ)歎いて云はく、当世日蓮法師(ほっし)と云へる者世に在り、斎戒は堕獄すと云云。所詮何なる経論に之有りや[是一]。又云はく、当世日本国上下誰か念仏せざらん、念仏は無間の業と云云。是何なる経文ぞや、慥(たし)かなる証文を日蓮房に対して之を聞かん[是二]。総じて是体(てい)の爾前得道の有無の法門六箇条云云。然るに推知するに極楽寺良観が已前の如く日蓮に相値ひて宗論有るべきの由■(=句-口+言)(ののし)る事之有らば、目安を上げて極楽寺に対して申すべし。其の師にて候者は去ぬる文永八年に御勘気を蒙(こうむ)り佐州に遷(うつ)され給ふて後、同じき文永十一年正月の比(ころ)、御免許を蒙り鎌倉に帰る。其の後平金吾(へいのきんご)に対して様々の次第申し含ませ給ひて、甲斐国(かいのくに)の深山に閉ぢ籠(こも)らせ給ひて後は、何なる主上女院(にょいん)の御意たりと云へども、山の内を出でて諸宗の学者に法門あるべからざる由仰せ候。随って其の弟子に若輩のものにて候へども、師の日蓮の法門九牛が一毛をも学び及ばず候といへども、法華経に付いて不審有りと仰せらるゝ人わたらせ給はゞ、存じ候なんど云ひて、其の後は随問而答(ずいもんにとう)の法門申すべし。又前六箇条一々の難問兼々(かねがね)申せしが如く、日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず。彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時、爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下(くだ)し鬼畜なんどと下しても、其の過ち有らんやと意得て宗論すべし。又彼の律宗の者どもが破戒なる事、山川の頽(くず)るゝよりも尚無戒なり。成仏までは思ひもよらず、人天の生を受くべしや。妙楽大師云はく「若し一戒を持てば人中に生ずることを得、若し一戒を破れば還って三途に堕す」と。其の外(ほか)斎法経・正法念経等の制法、阿含経等の大小乗経斎法斎戒、今程の律宗忍性が一党、誰か一戒を持(たも)てる。還堕三途(げんださんず)は疑ひ無し。若しは無間地獄にや落ちんずらん、不便(ふびん)なんど立てゝ、宝塔品の持戒行者と是を■(=句-口+言)(ののし)るべし。
(平成新編1108~1109・御書全集1281~1282・正宗聖典1026・昭和新定[2]1163~1165・昭和定本[2]1486~1488)
[建治03(1277)年03月21日"文永12(1275)03月21日""弘安01(1278)年03月21日"(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]