御文(おんふみ)委(くわ)しく承り候ひ畢(おわ)んぬ。御文に云はく、末法の始め五百年にはいかなる法を弘むべしと、思ひまひらせ候ひしに、聖人の仰せを承り候に、法華経の題目に限りて弘むべき由聴聞申して御弟子(みでし)の一分に定まり候。殊(こと)に五節供はいかなる由来、何なる所表、何を以て正意としてまつ(祭)り候べく候や云云。
夫(それ)此の事は日蓮委しく知る事なし。然りと雖も粗(ほぼ)意得て候。根本大師の御相承ありげに候。総じて真言天台両宗の習ひなり。委しくは曾谷殿へ申して候。次(つ)いでの御時は御談合あるべきか。
先づ五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつ(祭)り、天照太神を歳(とし)の神とす。三月三日は法の一字のまつりなり、辰(たつ)を以て神とす。五月五日は蓮の一字のまつりなり、午(うま)を以て神とす。七月七日は華の一字の祭りなり、申(さる)を以て神とす。九月九日は経の一字のまつり、戌(いぬ)を以て神とす。
此くの如く心得て、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。「現世安穏後生善処(げんぜあんのんごしょうぜんしょ)」疑ひなかるべし。法華経の行者をば一切の諸天、不退に守護すべき経文分明なり。経の第五に云はく「諸天昼夜に常に法の為の故に而して之を衛護(えいご)す」云云。又云はく「天の諸の童子以て給使を為(な)し、刀杖(とうじょう)も加へず、毒も害すること能(あた)はず」云云。諸天とは梵天・帝釈・日月・四大天王等なり。法とは法華経なり。童子とは七曜・二十八宿・摩利支天(まりしてん)等なり。「臨兵闘者皆陳列在前(りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん)」是又「刀杖不加(とうじょうふか)」の四字なり。此等は随分の相伝なり。能(よ)く能く案じ給ふべし。第六に云はく「一切世間の治生産業は皆実相と相違背(あいいはい)せず」云云。五節供の時も唯南無妙法蓮華経と唱へて悉地(しつじ)成就せしめ給へ。委細は又々申すべく候。
次に法華経は末法の始め五百年に弘まり給ふべきと聴聞仕(つかまつ)り、御弟子(みでし)となると仰せ候事。師檀となる事は三世の契(ちぎ)り種熟脱の三益、別に人を求めんや。「在々諸仏の土に常に師と倶に生まれん」「若し法師(ほっし)に親近(しんごん)せば、速やかに菩提の道を得ん。是の師に随順して学ばゞ恒沙(ごうじゃ)の仏を見たてまつることを得ん」との金言違ふべきや。提婆品に云ふ「所生の処には常に此の経を聞かん」の人はあに貴辺にあらずや。其の故は次上(つぎかみ)に「未来世の中に、若し善男子善女人有って」と見えたり。善男子とは法華経を持(たも)つ俗の事なり。弥(いよいよ)信心をいたし給ふべし、信心をいたし給ふべし。恐々謹言。
(平成新編0334~0335・御書全集1070~1071・正宗聖典1019・昭和新定[1]0693~0695・昭和定本[1]0405~0407)
[文永02(1265)年01月11日"文永03(1266)年01月11日""文永08(1271)年01月11日"(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]