「此経難持(しきょうなんじ)」の事、抑(そもそも)弁阿闍梨(べんあじゃり)が申し候は、貴辺のかた(語)らせ給ふ様に持(たも)たん者は「現世安穏後生善処(げんぜあんのんごしょうぜんしょ)」と承って、すでに去年より今日まで、かたの如く信心をいたし申し候処に、さにては無くして大難雨の如く来たり候と云云。まこと(真)にてや候らん、又弁公がいつはりにて候やらん。いかさまよきついでに不審をはらし奉らん。
法華経の文に「難信難解(なんしんなんげ)」と説き玉ふは是なり。此の経をき(聞)ゝう(受)くる人は多し。まことに聞き受くる如くに大難来たれども「憶持不忘(おくじふもう)」の人は希(まれ)なるなり。受くるはやす(易)く、持つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値(あ)ふべしと心得て持つなり。「則為疾得無上仏道(そくいしっとくむじょうぶつどう)」は疑ひ無し。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持つとは云ふなり。経に云はく「護持仏所嘱(ごじぶつしょぞく)」といへり。天台大師の云はく「信力の故に受け念力の故に持つ」云云。又云はく「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す、諸仏も亦(また)然(しか)なり」云云。火にたきゞ(薪)を加ふる時はさか(盛)んなり。大風吹けば求羅(ぐら)は倍増するなり。松は万年のよはひ(齢)を持つ故に枝をま(曲)げらる。法華経の行者は火とぐら(求羅)との如し。薪と風とは大難の如し。法華経の行者は久遠長寿の如来なり。修行の枝をき(切)られま(曲)げられん事疑ひなかるべし。此より後は「此経難持」の四字を暫時(ざんじ)もわす(忘)れず案じ給ふべし。恐々。
(平成新編0775~0776・御書全集1136・正宗聖典1017・昭和新定[2]1138~1139・昭和定本[1]0894~0895)
[文永12(1275)年03月06日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]