四句あり。一に信而不解(しんにふげ)、二に解而不信(げにふしん)、三に亦信亦解(やくしんやくげ)、四に非信非解(ひしんひげ)。問うて云はく、信而不解の者は謗法なるか。答へて云はく、法華経に云はく「信を以て入ることを得」等云云。涅槃経の九に云はく。難じて云はく、涅槃経三十六に云はく「我契経(かいきょう)の中に於て説く、二種の人有り仏法僧を謗ずと。一には不信にして瞋恚(しんに)の心あるが故に、二には信ずと雖も義を解(げ)せざるが故に。善男子、若し人信心あって智慧有ること無き、是の人は則ち能(よ)く無明(むみょう)を増長す。若し智慧有って信心有ること無き、是の人は則ち能く邪見を増長す。善男子、不信の人は瞋恚の心あるが故に説いて仏法僧宝有ること無しと言はん。信ずる者にして慧(え)無くば顛倒(てんどう)して義を解するが故に、法を聞く者をして仏法僧を謗ぜしむ」等云云。此の二人の中には信じて而(しか)も解せざる者を謗法と説く如何。答へて云はく、此の信而不解の者は涅槃経の三十六に恒河(ごうが)の七種の衆生の第二の者を説くなり。此の第二の者は涅槃経の一切衆生悉有仏性(しつうぶっしょう)の説を聞いて之を信ずと雖も而も又不信の者なり。問うて云はく、如何ぞ信ずと雖も而も不信なるや。答へて云はく、一切衆生悉有仏性の説を聞いて之を信ずと雖も、又心を爾前(にぜん)の経に寄(よ)する一類の衆生をば無仏性の者と云ふなり。此(これ)信而不信の者なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、恒河第二の衆生を説いて云はく、経に云はく「是(か)くの如き大涅槃経を聞くことを得て信心を生ず。是を名づけて出と為す」と。又云はく「仏性は是衆生に有りと信ずと雖も必ずしも一切皆悉(ことごと)く之有らず。是の故に名づけて信不具足(しんふぐそく)と為す」文。此の文の如くんば、口には涅槃を信ずと雖も心に爾前の義を存する者なり。又此の第二の人を説いて云はく「信ずる者にして慧無くば顛倒して義を解するが故に」等云云。顛倒解義(てんどうげぎ)とは、実経の文を得て権経の義と覚(さと)る者なり。問うて云はく、信而不解得道の文如何。答へて云はく、涅槃経の三十二に云はく「此の菩提の因は復(また)無量なりと雖も、若し信心を説けば已(すで)に摂尽す」文。九に云はく「此の経を聞き已(お)はって悉く皆菩提の因縁と作(な)る。法声光明(ほうしょうこうみょう)毛孔に入る者は必ず定(さだ)んで当(まさ)に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(う)べし」等云云。法華経に云はく「信を以て入ることを得」等云云。問うて云はく、解而不信の者は如何。答ふ、恒河の第一の者なり。問うて云はく、証文如何。答へて云はく、涅槃経の三十六に第一を説いて云はく「人有りて是の大涅槃経の如来常住無有変易常楽我浄(にょらいじょうじゅうむうへんにゃくじょうらくがじょう)を聞くとも、終(つい)に畢竟(ひっきょう)して涅槃の一切衆生悉有仏性に入らざるは一闡提の人なり。方等(ほうどう)経を謗じ五逆罪を作り四重禁を犯すとも、必ず当に菩提の道を成ずることを得べし。須陀■(=清-青+亘)(しゅだおん)の人・斯陀含(しだごん)の人・阿那含(あなごん)の人・阿羅漢の人・辟支仏等必ず当に阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得べし。是の語(ことば)を聞き已(お)はって不信の心を生ず」等云云。問うて云はく、此の文不信とは見えたり、解而不信とは見えず如何。答へて云はく、第一の結文(けつもん)に云はく「若し智慧有りて信心有ること無くんば、是の人は則ち能く邪見を増長す」文。
(平成新編0290~0292・御書全集0459~0460・正宗聖典1016・昭和新定[1]0454~0455・昭和定本[1]0272~0273)
[弘長02(1262)年(佐前)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]