『四信五品抄(末代法華行者位並用心事)』(佐後)[真跡・古写本] | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 問うて云はく、末代初心の行者に何物をか制止するや。答へて曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分(けぶん)と為(な)すなり。是則ち此の経の本意なり。疑って云はく、此の義未だ見聞せず。心を驚かし耳を迷はす。明らかに証文を引いて請ふ苦(ねんご)ろに之を示せ。答へて曰く、経に云はく「我が為に復(また)塔寺を起て及び僧坊を作り四事を以て衆僧を供養することを須(もち)ひず」と。此の経文は明らかに初心の行者に檀戒等の五度を制止する文なり。疑って云はく、汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計(ばか)りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか。答へて曰く、初めを挙げて後を略す。問うて云はく、何を以て之を知らん。答えて曰く、次下の第四品の経文に云はく「況んや復人有って能(よ)く是の経を持って兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云。経文分明に初・ニ・三品の人には檀戒等の五度を制止し、第四品に至って始めて之を許す。後に許すを以て知んぬ、初めに制することを。問うて云はく、経文一往相似たり、将又(はたまた)疏釈(しょしゃく)有りや。答へて曰く、汝が尋ぬる所の釈とは月氏の四依の論か、将又漢土日本の人師の書か。本を捨てゝ末を尋ね、体を離れて影を求め、源を忘れて流れを貴び、分明なる経文を閣いて論釈を請ひ尋ぬ。本経に相違する末釈有らば本経を捨てゝ末釈に付くべきか。然りと雖も好みに随って之を示さん。文句の九に云はく「初心は縁に紛動(ふんどう)せられて正業を修するを妨げんことを畏(おそ)る。直ちに専ら此の経を持つは即ち上供養なり。事を廃して理を存するは所益弘多(しょやくぐた)なり」と。此の釈に縁と云ふは五度なり。初心の者が兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり。譬へば小船に財を積んで海を渡るに財と倶(とも)に没するが如し。「直専持此経(じきせんじしきょう)」と云ふは一経に亘るに非ず。専ら題目を持ちて余文を雑(まじ)へず、尚一経の読誦だも許さず、何に況んや五度をや。「廃事存理(はいじぞんり)」と云ふは戒等の事を捨てゝ題目の理を専らにす云云。「所益弘多」とは初心の者が諸行と題目と並べ行ずれば所益全く失ふと云云。文句に云はく「問ふ、若し爾(しか)らば経を持つは即ち是第一義の戒なり。何が故ぞ復(また)能(よ)く戒を持つ者と言ふや。答ふ、此は初品を明かす、後を以て難を作すべからず」等云云。当世の学者此の釈を見ずして、末代の愚人を以て南岳・天台の二聖に同ず。誤りの中の誤りなり。妙楽重ねて之を明かして云はく「問ふ、若し爾らば、若し事の塔及び色身の骨を須(もち)ひずば亦事の戒を持つことを須ひざるべし。乃至事の僧を供養することを須ひざるや」等云云。伝教大師云はく「二百五十戒忽(たちま)ちに捨て畢(おわ)んぬ」と。唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の弟子如宝(にょほう)・道忠(どうちゅう)並びに七大寺等一同に捨て了んぬ。又教大師未来を誡(いまし)めて云はく「末法の中に持戒の者有らば是怪異(けい)なり。市(いち)に虎有るが如し。此(これ)誰か信ずべき」云云。
(平成新編1113~1114・御書全集0340~0341・正宗聖典0278~0280、1014・昭和新定[2]1649~1650・昭和定本[2]1296~1298)
[建治03(1277)年04月初旬"建治03(1277)年04月10日"(佐後)]
[真跡・中山法華経寺(100%現存)、古写本・日興筆 富士大石寺]
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