筒御器(つつごき)一具付三十、並びに盞(さかずき)付六十、送り給(た)び候ひ畢(おわ)んぬ。
御器と申すはうつはものと読み候。大地くぼければ水たまる、青天浄(きよ)ければ月澄めり、月出でぬれば水浄し、雨降れば草木昌(さか)へたり。器(うつわ)は大地のくぼきが如し。水たまるは池に水の入るが如し。月の影を浮かぶるは法華経の我等が身に入らせ給ふが如し。器に四つの失(とが)あり。一には覆(ふく)と申してうつぶけるなり。又はくつがへす、又は蓋(ふた)をおほふなり。二には漏(ろ)と申して水もるなり。三には■(=河-可+于)(う)と申してけがれたるなり。水浄けれども糞の入りたる器の水をば用ふる事なし。四には雑(ぞう)なり。飯に或は糞、或は石、或は沙(すな)、或は土なんどを雑(まじ)へぬれば人食らふ事なし。器は我等が身心を表はす。我等が心は器の如し。口も器、耳も器なり。法華経と申すは、仏の智慧の法水(ほっすい)を我等が心に入れぬれば、或は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆ひ、或は口に唱へじと吐き出だしぬ。譬へば器を覆するが如し。或は少し信ずる様なれども又悪縁に値ひて信心うすくなり、或は打ち捨て、或は信ずる日はあれども捨つる月もあり。是は水の漏るが如し。或は法華経を行ずる人の、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申すは、飯に糞を雑(まじ)へ沙石(いさご)を入れたるが如し。法華経の文に「但大乗経典を受持することを楽(ねが)って、乃至余経の一偈をも受けざれ」等と説くは是なり。世間の学匠は法華経に余行を雑へても苦しからずと思へり。日蓮もさこそ思ひ候へども、経文は爾(しか)らず。譬へば后(きさき)の大王の種子(たね)を孕めるが、又民ととつ(嫁)げば王種と民種と雑りて、天の加護と氏神の守護とに捨てられ、其の国破るゝ縁となる。父二人出で来たれば王にもあらず、民にもあらず、人非人なり。法華経の大事と申すは是なり。種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり。南無阿弥陀仏は仏種にはあらず。真言五戒等も種ならず。能(よ)く能く此の事を習ひ給ふべし。是は雑(ぞう)なり。此の覆・漏・■(=河-可+于)・雑の四つの失(とが)を離れて候器をば完器(かんき)と申してまた(完)き器なり。塹(ほり)・つゝみ(堤)漏らざれば水失せる事なし。信心のこゝろ全(まった)ければ平等大慧(びょうどうだいえ)の智水(ちすい)乾く事なし。今此の御器は固く厚く候上、漆浄(きよ)く候へば、法華経の御信力の堅固なる事を顕はし給ふか。毘沙門天は仏に四つの鉢を進(まい)らせて、四天下第一の福天と云はれ給ふ。浄徳(じょうとく)夫人は雲雷音王仏(うんらいおんのうぶつ)に八万四千の鉢を供養し進らせて妙音(みょうおん)菩薩と成り給ふ。今法華経に筒御器三十、盞(さかずき)六十進らせて、争(いか)でか仏に成らせ給はざるべき。
(平成新編1447~1448・御書全集1071~1072・正宗聖典1011・昭和新定[3]2075~2077・昭和定本[2]1729~1731)
[弘安03(1280)年01月27日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]