日蓮が申す事は愚かなる者の申す事なれば用ひず。されども去ぬる文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かた(固)めて有りしに宗(そう)の総馬尉(そうまのじょう)逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をば或は取り集めて手をとを(通)して船に結(ゆ)ひ付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道・豊前(ぶぜん)の前司(ぜんじ)は逃げて落ちぬ。松浦党(まつらとう)は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。又今度は如何が有るらん。彼の国の百千万億の兵(つわもの)、日本国を引き回(めぐ)らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。北の手は先づ佐渡の島に付きて、地頭・守護をば須臾(しゅゆ)に打ち殺し、百姓等は北山へに(逃)げん程に、或は殺され、或は生け取られ、或は山にして死ぬべし。抑(そもそも)是程の事は如何として起こるべきぞと推すべし。前に申しつるが如く、此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり。是は梵王(ぼんのう)・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふなり。日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使ひ・法華経の行者なりとなのり候を、用ひざらんだにも不思議なるべし。其の失(とが)に依って国破れなんとす。況んや或は国々を追ひ、或は引っぱり、或は打擲(ちょうちゃく)し、或は流罪し、或は弟子を殺し、或は所領を取る。現の父母の使ひをかくせん人々よ(善)かるべしや。日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背かん事よ。念仏を申さん人々は無間地獄に堕ちん事決定(けつじょう)なるべし。たのもしたのもし。
抑蒙古国より責めん時は如何がせさせ給ふべき。此の法華経をいたゞ(戴)き、頸(くび)にか(懸)けさせ給ひて北山へ登らせ給ふとも、年比(としごろ)念仏者を養ひ念仏を申して、釈迦仏・法華経の御敵とならせ給ひて有りし事は久しゝ。又若し命ともなるならば法華経ばし恨(うら)みさせ給ふなよ。又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき。をこがましき事とはおぼすとも、其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ。又是はさてをきぬ。此の法華経をば学乗房(がくじょうぼう)に常に開かさせ給ふべし。人如何に云ふとも、念仏者・真言師・持斎(じさい)なんどにばし開かさせ給ふべからず。又日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用ひあるべからず。恐々謹言。
(平成新編0830~0831・御書全集1329~1330・正宗聖典1003・昭和新定[2]1221~1223・昭和定本[2]0995~0997)
[建治01(1275)年05月08日(佐後)]
[真跡・茂原鷲山寺外五ヶ所(10%以上40%未満現存)]
[※sasameyuki※]