『乙御前御消息』(佐後) | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 木は火にやかるれども栴檀(せんだん)の木はやけず。火は水にけ(消)さるれども仏の涅槃の火はきえず。華は風にちれども浄居(じょうご)の華はしぼ(萎)まず。水は大旱魃(かんばつ)に失(う)すれども黄河に入りぬれば失せず。檀弥羅(だんみら)王と申せし悪王は、月氏の僧の頸(くび)を切りしに、とが(失)なかりしかども、師子尊者の頸を切りし時、刀と手と共に一時に落ちにき。弗沙密多羅(ほつしゃみったら)王は鶏頭摩寺(けいずまじ)を焼きし時、十二神の棒にかふべ(頭)わ(破)られにき。今日本国の人々は法華経のかたきとなりて、身を亡ぼし国を亡ぼしぬるなり。かう申せば日蓮が自讃(じさん)なりと心えぬ人は申すなり。さにはあらず、是を云はずば法華経の行者にはあらず、又云ふ事の後にあ(合)へばこそ人も信ずれ。かうたゞか(書)きを(置)きなばこそ未来の人は智ありけりとはしり候はんずれ。又、身軽法重(しんきょうほうじゅう)、死身弘法とのべて候へば、身は軽ければ人は打ちはり悪(にく)むとも、法は重ければ必ず弘まるべし。法華経弘まるならば死かばね(屍)還って重くなるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし。利生あるならば今の八幡大菩薩といは(斎祀)ゝるゝやうにいは(祀)うべし。其の時は日蓮を供養せる男女は、武内(たけのうち)・若宮(わかみや)なんどのやうにあが(崇)めらるべしとおぼしめせ。抑(そもそも)一人の盲目をあけて候はん功徳すら申すばかりなし。況んや日本国の一切衆生の眼をあけて候はん功徳をや。何(いか)に況んや一閻浮提四天下の人の眼のしゐ(盲)たるをあけて候はんをや。法華経の第四に云はく「仏滅度の後に能(よ)く其の義を解(げ)せんは、是(これ)諸の天人世間の眼なり」等云云。法華経を持(たも)つ人は一切世間の天人の眼なりと説かれて候。日本国の人の日蓮をあだ(怨)み候は一切世間の天人の眼をくじ(抉)る人なり。されば天もいかり日々に天変(てんぺん)あり。地もいかり月々に地夭(ちよう)かさなる。天の帝釈は野干(やかん)を敬ひて法を習ひしかば、今の教主釈尊となり給ひ、雪山童子は鬼を師とせしかば、今の三界の主となる。大聖(だいしょう)・上人は形を賎(いや)しみて法を捨てざりけり。今日蓮おろかなりとも野干と鬼とに劣るべからず。当世の人いみじくとも、帝釈・雪山童子に勝(まさ)るべからず。日蓮が身の賎しきについて巧言(ぎょうげん)を捨てゝ候故に、国既に亡びんとするかなしさよ。又日蓮を不便(ふびん)と申しぬる弟子どもをも、たす(助)けがた(難)からん事こそなげ(嘆)かしくは覚え候へ。
 いかなる事も出来候はゞ是へ御わたりあるべし、見奉らん。山中にて共にう(飢)え死にし候はん。又乙(おと)御前こそおとな(成長)しくなりて候らめ。いかにさか(賢)しく候らん。又々申すべし。
(平成新編0898~0899・御書全集1221~1222・正宗聖典1003・昭和新定[2]1329~1330・昭和定本[2]1100~1102)
[建治01(1275)年08月04日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]