日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。而るに去ぬる文永五年の比(ころ)、東には俘囚(えびす)をこり、西には蒙古よりせめ(責)つか(使)ひつきぬ。日蓮案じて云はく、仏法を信ぜざればなり。定めて調伏(じょうぶく)をこ(行)なわれんずらん。調伏は又真言宗にてぞあらんずらん。月支・漢土・日本三箇国の間に且(しばら)く月支はをく。漢土・日本の二国は真言宗にやぶらるべし。善無畏三蔵、漢土に亘(わた)りてありし時は、唐の玄宗(げんそう)の時なり。大旱魃(かんばつ)ありしに祈雨(きう)の法ををほ(仰)せつけられて候ひしに、大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大いに悦びし程に、須臾(しゅゆ)ありて大風吹き来たりて国土をふきやぶ(破)りしかば、けをさ(興醒)めてありしなり。又、其の世に金剛智三蔵わたる。又雨の御いの(祈)りありしかば、七日が内に大雨下(ふ)り、上(かみ)のごとく悦んでありし程に前代未聞の大風吹きしかば、真言宗はをそ(恐)ろしき悪法なりとて月支へを(追)われしが、とかう(兎角)してとゞ(留)まりぬ。又、同じき御世に不空三蔵雨をいのりし程、三日が内に大雨下る。悦びさきのごとし。又大風吹きてさき(前)二度よりもをび(夥)たゞし、数十日とゞまらず。不可思議の事にてありしなり。此は日本国の智者・愚者一人もし(知)らぬ事なり。しらんとをも(思)わば、日蓮が生きてある時くは(詳)しくたづ(尋)ねならへ。
日本国には天長元年二月に大旱魃あり。弘法大師も神泉苑にして祈雨あるべきにてありし程に、守敏(すびん)と申せし人すゝ(進)んで云はく、弘法は下臈(げろう)なり我は上臈(じょうろう)なり、ま(先)づをほ(仰)せをか(蒙)ほるべしと申す。こ(請)うに随ひて守敏をこ(行)なう。七日と申すには大雨下る。しかれども京中計りにて田舎にふらず。弘法にをほせつけられてありしかば、七日にふらず、二七日にふらず、三七日にふらざりしかば、天子我といのりて雨をふらせ給ひき。而るを東寺(とうじ)の門人等、我が師の雨とがう(号)す。くはしくは日記をひいて習ふべし。天下第一のわわく(誑惑)のあるなり。これより外に弘仁九年の春のへきれい(疫癘)、又三鈷(さんこ)な(投)げたる事に不可思議の誑惑(おうわく)あり、口伝すべし。
(平成新編0874・御書全集1468~1469・正宗聖典----・昭和新定[2]1293~1295・昭和定本[2]1066~1068)
[建治01(1275)年06月22日(佐後)]
[真跡・富士大石寺外一ヶ所(70%以上100%未満現存)、古写本・日順筆 北山本門寺]
[※sasameyuki※]