妙法蓮華経の体(たい)のいみじくおはしますは、何様(いかよう)なる体にておはしますぞと尋ね出だしてみれば、我が心性の八葉(はちよう)の白蓮華にてありける事なり。されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば、我が身頓(やが)て法華経にて、法華経は我が身の体をよび顕はし給ひける仏の御言(みことば)にてこそありければ、やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり。かく覚りぬれば無始より已来、今まで思ひならはしゝひが思ひの妄想は、昨日の夢を思ひやるが如く、あとかたもなく成りぬる事なり。是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚りて如法(にょほう)に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり。かく信ずるを如説修行の人とは申すなり。南無妙法蓮華経。
(平成新編0105~0106・御書全集0411・正宗聖典1014・昭和新定[1]0216~0217・昭和定本[3]2032~2033)
[正嘉02(1258)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]