問うて云はく、一仏の名号には諸仏の功徳はをさまらず。法華経の五字には諸経□(□=欠字)をさまるというか。答へて云はく、爾(しか)なり。金にに(似)たる石あり、又実の金あり、珠ににたる石あり、実の珠あり。愚者は金ににたる石を金とをもい、珠ににたる石を珠とをもう。この僻案(びゃくあん)の故に、又金に似たる石と実の金と、珠に似たる石と実の珠と勝劣をあらそう。世間の人々は何れを是という事をしらざる故に、或は多人のいうかたにつきて一人の実義をすて、或は上人の言について少人の実義をすつ。或は威徳の者のいうぎにつきて無威の者の実義をすつ。仏は依法不依人(えほうふえにん)といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。仏は依了義経・不依不了義経とはせいし給へども、濁世(じょくせ)の衆生は依不了義経・不依了義経の者となりぬ。あらあら世間の法門を案ずるに、華厳宗と申す宗は華厳経を本として一切経をすべたり。法相(ほっそう)宗・三論宗等も皆我が依経を本として諸経を釈するなり。されば華厳宗に人多しといえども澄観(ちょうかん)等の心をいでず。彼の宗の人々諸経をよめども、たゞ澄観の心をよむなり。全く諸経をばよまず。余宗又かくのごとし。澄観等仏意にあいかなわば彼等又仏意に相叶ふべし。澄観もし仏意に相叶はずば彼の宗の諸人又仏意に相叶ふべからず。一人妄(もう)をさえづれば諸人妄をつたう。一人まつり事をだやかならざれば万民苦をなすがごとし。当世の念仏者たとい諸経諸仏を念じ行ずとをもえども、道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)・法然等の心をすぎず。若し爾(しか)らば道綽禅師が未有一人得者の釈、善導が千中無一の釈、法然が捨閉閣抛の四字謬(あやま)りならば、たとえ一代聖教をそらにせる念仏者なりとも阿弥陀の本願にもすてられ、諸仏の御意にもそむき、法華経の其人命終入阿鼻獄(ごにんみょうじゅうにゅうあびごく)の者とならん事疑ひなし。これ偏(ひとえ)に依法不依人の仏の誓戒をそむいて、人によりぬる失(とが)のいたすところなり。
(平成新編0805~0806・御書全集----・正宗聖典----・昭和新定[3]2602~2604・昭和定本[3]2493~2495)
[不詳(文永中期)]
[真跡・玉沢妙法華寺外一ヶ所(断簡)]
[※sasameyuki※]