眠れる師子に手を付けざれば瞋(いか)らず、流れにさを(竿)ゝ立てざれば浪(なみ)立たず、謗法を呵責(かしゃく)せざれば留難なし。「若し善比丘あって法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責せずんば」の置の字ををそ(畏)れずんば今は吉し、後を御らんぜよ、無間地獄は疑ひ無し。故に南岳大師の四安楽行に云はく「若し菩薩有って悪人を将護して治罰すること能はず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊(はいえ)せば此の人は実に菩薩に非ず。外には詐侮(さぶ)を現じ常に是の言(ことば)を作(な)さん、我は忍辱(にんにく)を行ずと。其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」云云。十輪経に云はく「若し誹謗の者ならば共住(ぐじゅう)すべからず亦親近せざれ。若し親近し共住せば即ち阿鼻地獄に趣(おもむ)かん」云云。栴檀(せんだん)の林に入りぬれば、たを(手折)らざるに其の身に薫ず。誹謗の者に親近すれば所修の善根悉(ことごと)く滅して倶に地獄に堕落せん。故に弘決の四に云はく「若し人本(もと)悪無けれども悪人に親近すれば後に必ず悪人と成りて悪名天下に遍(あまね)し」云云。
凡そ謗法に内外あり。国家の二是なり。外とは日本六十六箇国の謗法是なり。内とは王城九重(ここのえ)の謗是なり。
此の内外を禁制せずんば宗廟社稷(そうびょうしゃしょく)の神に捨てられて、必ず国家亡ぶべし。如何(いかん)と云ふに、宗廟とは国王の神を崇む、社とは地の神なり。稷(しょく)とは五穀の総名、五穀の神(たましい)なり。
此の両の神、法味に飢ゑて国を捨て給ふ故に国土既に日々に衰減せり。故に弘決に云はく「地広くして尽(ことごと)く敬(けい)すべからず、封じて社と為(な)す。稷とは謂はく五穀の総名にして即ち五穀の神なり。故に天子の居する所には宗廟を左にし、社稷を右にし、四時五行を布(し)き列ぬ。故に国の亡びるを以て社稷を失ふと為(な)す」と。故に山家大師は「国に謗法の声有るによて万民数を減じ、家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん」と。故に分々の内外有るべし。
(平成新編0463~0464・御書全集1374・正宗聖典----・昭和新定[1]0701~0702・昭和定本[1]0487~0488)
[文永08(1271)年05月16日(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]