『阿仏房尼御前御返事』(佐後) | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 御文(ふみ)に云はく「謗法の浅深軽重(せんじんきょうじゅう)に於ては罪報如何(いか)なるや」云云。夫(それ)法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり。然りといへども、信ずる者は成仏をと(遂)ぐ、謗ずる者は無間大城に堕(お)つ。「若し人信ぜずして斯(こ)の経を毀謗(きぼう)せば即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは是なり。謗法の者にも浅深軽重の異(こと)なりあり。法華経を持ち信ずれども、誠に色心相応の信者、能持此経(のうじしきょう)の行者はまれなり。此等の人は介爾(けに)ばかりの謗法はあれども、深重の罪を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故なり。大水を以て小火をけ(消)すが如し。涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば、当に知るべし是の人は仏法の中の怨(あだ)なり。若し能(よ)く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子真の声聞なり」云云。此の経文にせめられ奉りて、日蓮は種々の大難に値ふといへども、仏法中怨のいまし(誡)めを免(まぬか)れんために申すなり。
 但し謗法に至って浅深あるべし。偽(いつわ)り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、ま(先)づまづさ(差)しを(置)く事あるなり。立正安国論の如し。いふといはざる(不言)との重罪免(まぬか)れ難し。云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら置いていまし(禁)めざる事、眼耳の二徳忽(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是(これ)彼が怨なり」等云云。重罪消滅しがたし。弥(いよいよ)利益の心尤(もっと)も然るべきなり。軽罪の者をばせむる時もあるべし。又せめずしてを(置)くも候べし。自然になを(直)る辺あるべし。せめて自他の罪を脱(まぬか)れて、さてゆる(免)すべし。其の故は一向謗法になれば、まさ(勝)れる大重罪を受くるなり。「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」とは是なり。日蓮が弟子檀那の中にも多く此くの如き事共候。さだめて尼御前もきこしめして候らん。一谷(いちのさわ)の入道の事、日蓮が檀那と内には候へども外は念仏者にて候ぞ。後生はいかんとすべき。然れども法華経十巻渡して候ひしなり。
 弥信心をはげみ給ふべし。仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにく(憎)むべし。よし、にくまばにくめ、法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし。如説修行の人とは是なり。法華経に云はく「恐畏(くい)の世に於て能(よ)く須臾(しゅゆ)も説く」云云。悪世末法の時、三毒強盛の悪人等集まりて候時、正法を暫時(ざんじ)も信じ持ちたらん者をば天人供養あるべしと云ふ経文なり。
 此の度大願を立て、後生を願はせ給へ。少しも謗法不信のとが(失)候はゞ、無間大城疑ひなかるべし。譬へば海上を船にのるに、船をろ(粗)そかにあらざれども、あか(水)入りぬれば、必ず船中の人々一時に死するなり。なはて(畷)堅固なれども、蟻(あり)の穴あれば必ず終(つい)に湛へたる水のたま(溜)らざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかた(固)むべきなり。浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。尼御前の御身として謗法の罪の浅深軽重の義をとは(問)せ給ふ事、まことにありがたき女人にておはすなり。竜女にあに(豈)をと(劣)るべきや。「我大乗の教を闡(ひら)いて苦の衆生を度脱せん」とは是なり。「其の義趣を問ふは是則ち難しとす」と云ひて法華経の義理を問ふ人はかた(難)しと説かれて候、相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし。日蓮が義を助け給ふ事、不思議に覚え候ぞ、不思議に覚え候ぞ。穴賢穴賢。
(平成新編0905~0907・御書全集1307~1308・正宗聖典----・昭和新定[2]1343~1345・昭和定本[2]1108~1110)
[建治01(1275)年09月03日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]