『南条殿御返事(南条兵衛七郎殿御返事・鶏冠書)』(佐後) | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 塩一駄・大豆一俵・とっさか(鶏冠菜)一袋・酒一筒給び候。上野国より御帰宅候後は未だ見参(げんざん)に入らず候。床敷(ゆかしく)存じ候ひし処に、品々の物ども取り副(そ)へ候ひて御音信(おとずれ)に預かり候事申し尽くし難き御志にて候。
 今申せば事新しきに相似て候へども、徳勝童子は仏に土の餅を奉りて、阿育大王と生まれて、南閻浮提を大体知行(ちぎょう)すと承り候。土の餅は物ならねども、仏のいみじく渡らせ給へば、かくいみじき報いを得たり。然るに釈迦仏は、我を無量の珍宝を以て億劫の間(あいだ)供養せんよりは、末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は、百千万億倍過ぐべしとこそ説かせ給ひて候に、法華経の行者を心に入れて数年供養し給ふ事有り難き御志かな。金言の如くんば定めて後生は霊山浄土に生まれ給ふべし。いみじき果報かな。
 其の上此の処(ところ)は人倫を離れたる山中なり。東西南北を去りて里もなし。かゝるいと心細き幽窟(ゆうくつ)なれども、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定(にゅうじょう)の処なり、舌の上は転法輪の所、喉(のんど)は誕生の処、口中(こうちゅう)は正覚(しょうがく)の砌(みぎり)なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり。神力品に云はく「若し林中に於ても、若しは樹下(じゅげ)に於ても、若しは僧坊に於ても、乃至般(はつ)涅槃したまふ」云云。此の砌に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。彼の中天竺(ちゅうてんじく)の無熱池(むねっち)に臨みし悩者(のうしゃ)が、心中の熱気を除愈(じょゆ)して充満其願(じゅうまんごがん)如清涼池(にょしょうりょうち)とうそぶきしも、彼此(ひし)異なりといへども、其の意(こころ)は争(いか)でか替はるべき。彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺(みね)なり。参詣遥かに中絶せり。急々に来臨を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし。哀れ哀れ申しつくしがたき御志かな、御志かな。
 御使ひの申し候を承り候。是の所労難儀のよし聞こえ候。いぞぎ療治をいたされ候ひて御参詣有るべく候。
(平成新編1569~1570・御書全集1578~1579・正宗聖典1005・昭和新定[3]2246~2247・昭和定本[2]1883~1884)
[弘安04(1281)年09月11日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]