かの心のかたがたには、又日蓮が事、心にかゝらせ給ひけん。仏語むなしからざれば法華経ひろまらせ給ふべし。それについては、此の御房はいかなる事もありていみじくならせ給ふべしとおぼしつらんに、いうかいなくなが(流)し失せしかば、いかにやいかにや法華経・十羅刹はとこそをも(思)はれけんに、いまゝでだにもながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん。又いゐし事むなしからずして、大蒙古国もよせて、国土もあや(危)をしげになりて候へばいかに悦び給はん。これは凡夫の心なり。法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりき(聞)かずみ(見)ず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。経文には「若有聞法者(にゃくうもんぽうしゃ)無一不成仏」ととかれて候。故聖霊は法華経に命をすてゝをはしき。わづかの身命をさゝえしところを、法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや。彼の雪山童子の半偈のために身をすて、薬王菩薩の臂(ひじ)をやき給ひしは、彼は聖人なり、火に水を入るゝがごとし。此は凡夫なり、紙を火に入るゝがごとし。此をもって案ずるに、聖霊は此の功徳あり。大月輪の中か、大日輪の中か、天鏡をもって妻子の身を浮かべて、十二時に御らんあるらん、設ひ妻子は凡夫なれば此をみずきかず。譬へば耳し(聾)ゐたる者の雷(いかずち)の声をきかず、目つぶれたる者の日輪を見ざるがごとし、御疑ひあるべからず。定めて御まぼ(守)りとならせ給ふらん。其の上さこそ御わたりあるらめ。
(平成新編0832~0833・御書全集1253~1254・正宗聖典----・昭和新定[2]1226~1227・昭和定本[2]1000~1001)
[建治01(1275)年05月(佐後)]
[真跡・中山法華経寺(100%現存)]
[※sasameyuki※]