世間に人の恐るゝ者は、火炎(ほのお)の中と刀剣(つるぎ)の影と此の身の死するとなるべし。牛馬猶(なお)身を惜しむ、況んや人身をや。癩人(らいにん)猶命を惜しむ、何に況んや壮人をや。仏説いて云はく「七宝を以て三千大千世界に布(し)き満つるとも、手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意。雪山童子の身をなげし、楽法梵志(ぎょうぼうぼんし)が身の皮をはぎし、身命に過ぎたる惜しき者のなければ、是を布施として仏法を習へば必ず仏となる。身命を捨つる人、他の宝を仏法に惜しむべしや。又財宝を仏法におしまん物、まさる身命を捨つべきや。世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし。又主君の為に命を捨つる人は、すくなきようなれども其の数多し。男子ははじ(恥)に命をすて、女人は男の為に命をす(捨)つ。魚は命を惜しむ故に、池にす(栖)むに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。しかれどもゑ(餌)にばかされて釣をのむ。鳥は木にす(栖)む。木のひき(低)ゝ事をお(怖)じて木の上枝(ほつえ)にすむ。しかれどもゑ(餌)にばかされて網にかゝる。人も又是くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし。
仏法は摂受・折伏時によるべし。譬へば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は時によりて法を行ず。雪山童子・薩■(=垢-后+垂)王子は、身を布施とせば法を教へん、菩薩の行となるべしと責めしかば身をすつ。肉をほしがらざる時、身を捨つべきや。紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。破戒無戒を毀(そし)り、持戒正法を用ひん世には、諸戒を堅く持(たも)つべし。儒教・道教を以て釈教を制止せん日には、道安(どうあん)法師・慧遠(えおん)法師・法道(ほうどう)三蔵等の如く、王と論じて命を軽うすべし。釈教の中に小乗・大乗・権経・実経雑乱して明珠と瓦礫(がりゃく)と牛驢(ごろ)の二乳を弁(わきま)へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし。畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる。諛臣(ゆしん)と申すは是なり。強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人(かとうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。これおご(驕)れるにはあらず、正法を惜しむ心の強盛なるべし。おご(驕)る者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅のおごり、帝釈にせ(攻)められて、無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中に小身と成りて隠れしが如し。正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道な(成)るべし。千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶ふべからず。
(平成新編0578~0579・御書全集0956~0957・正宗聖典----・昭和新定[1]0835~0838・昭和定本[1]0611~0612)
[文永09(1272)年03月20日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]