日蓮末法に生まれて上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立ちて粗(ほぼ)ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先づ作り顕はし奉る事、予が分斉(ぶんざい)にはいみじき事なり。日蓮をこそにく(憎)むとも内証にはいかゞ及ばん。
さればかゝる日蓮を此の島まで遠流しける罪、無量劫にもき(消)えぬべしとも覚えず。譬喩品に云はく「若し其の罪を説かば劫を窮(きわ)むるも尽きず」とは是なり。又日蓮を供養し、又日蓮が弟子檀那となり給ふ事、其の功徳をば仏の智慧にてもはかり尽くし給ふべからず。経に云はく「仏の智慧を以て多少を籌量(ちゅうりょう)すとも其の辺(ほとり)を得じ」と云へり。地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや。
(平成新編0665~0666・御書全集1359・正宗聖典----・昭和新定[2]0980~0981・昭和定本[1]0725~0726)
[文永10(1273)年05月17日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[秘・日蓮が相承の法門等]
[※sasameyuki※]