夫(それ)大事の法門と申すは別に候はず、時に当たりて我が為国の為大事なる事を、少しも勘へたが(違)へざるが智者にては候なり。仏のいみじきと申すは、過去を勘へ未来をしり三世を知ろしめすに過ぎて候御智慧はなし。設(たと)ひ仏にあらねども、竜樹・天親・天台・伝教なんど申せし聖人賢人等は、仏程こそなかりしかども、三世の事を粗(ほぼ)知ろしめされて候ひしかば、名をも未来まで流されて候ひき。所詮、万法は己心に収まりて一塵もか(欠)けず、九山八海も我が身に備はりて、日月衆星も己心にあり。然りといへども盲目の者の鏡に影を浮かべるに見えず、嬰児(みどりご)の水火を怖れざるが如し。外典の外道、内典の小乗、権大乗等は皆己心の法を片端(かたはし)片端説きて候なり。然りといへども法華経の如く説かず。然れば経々に勝劣あり、人々にも聖賢分かれて候ぞ。法門多々なれば止(とど)め候ひ畢(おわ)んぬ。
(平成新編0909~0910・御書全集1473・正宗聖典----・昭和新定[2]1348~1349・昭和定本[2]1113)
[建治01(1275)年09月(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]