問うて云はく、古(いにしえ)かくのごとくいえる人ありや。答へて云はく、伝教大師の云はく「当に知るべし、他宗所依の経は未だ最為(さいい)第一ならず、其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず。天台法華宗は所持の経最為第一なるが故に、能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。已(すで)に仏説に拠(よ)る豈(あに)自歎(じたん)哉(ならんや)」等云云。夫驥麟(きりん)の尾につけるだに(■[=虫+卑])の一日に千里を飛ぶといゐ、輪王(りんのう)に随へる劣夫(れっぷ)の須臾(しゅゆ)に四天下をめぐるというをば、難ずべしや疑ふべしや。豈自歎哉の釈は肝にめひ(銘)ずるか。若し爾(しか)らば、法華経を経のごとくに持つ人は、梵王にもすぐれ帝釈にもこえたり。修羅を随へば須弥山をもにな(担)いぬべし。竜をせめつかわば大海をもくみほしぬべし。伝教大師云はく「讃(ほ)むる者は福を安明(あんみょう)に積み、謗る者は罪を無間に開く」等云云。法華経に云はく「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賎(きょうせん)憎嫉(ぞうしつ)して結恨(けっこん)を懐(いだ)かん。乃至其の人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄に入らん」等云云。教主釈尊の金言まことならば、多宝仏の証明(しょうみょう)たが(違)わずば、十方の諸仏の舌相一定ならば、今日本国の一切衆生無間地獄に堕ちん事疑ふべしや。法華経の八の巻に云はく「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は乃至所願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」と。又云はく「若し之を供養し讃歎すること有らん者は当に今世に於て現の果報を得べし」等云云。此の二つの文の中に亦於現世得其福報(やくおげんせとくごふくほう)の八字、当於今世得現果報(とうおこんぜとくげんかほう)の八字、已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば、如来の金言は提婆が虚言(そらごと)に同じく、多宝の証明は倶伽利(くがり)が妄語に異ならじ、一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず。三世の諸仏もましまさゞるか。されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏法を心みよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
(平成新編0870~0871・御書全集0290~0291・正宗聖典0222~0223・昭和新定[2]1285~1287・昭和定本[2]1058~1059)
[建治01(1275)年06月10日(佐後)]
[真跡・玉沢妙法華寺外四ヶ所 身延曾存(70%以上100%未満現存)]
[※sasameyuki※]