夫仏道に入る根本は信をもて本とす。五十二位の中には十信を本とす。十信の位には信心初めなり。たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を諳にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にありと聞く。又鈍根第一の須梨槃特は、智慧もなく悟りもなし。只一念の信ありて普明如来と成り給ふ。又迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙りて華光如来・光明如来といはれき。仏説きて云はく「疑ひを生じて信ぜざらん者は、即ち当に悪道に堕すべし」等云云。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり。
而るに今の代の世間の学者の云はく、只信心計りにて解心なく、南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて、争でか悪趣をまぬかるべき等云云。此の人々は経文の如くならば、阿鼻大城まぬかれがたし。さればさせる解はなくとも、南無妙法蓮華経と唱ふるならば、悪道をまぬかるべし。譬へば蓮華は日に随ひて回る、蓮に心なし。芭蕉は雷によりて増長す、是の草に耳なし。我等は蓮華と芭蕉との如く、法華経の題目は日輪と雷との如し。犀の生角を身に帯して水に入りぬれば、水五尺身に近づかず。栴檀の一葉開きぬれば、四十由旬の伊蘭変ず。我等が悪業は伊蘭と水との如く、法華経の題目は犀の生角と栴檀の一葉との如し。金剛は堅固にして一切の物に破られざれども、羊の角と亀の甲に破らる。尼倶類樹は大鳥にも枝をれざれども、かのまつげにすくうせうれう鳥にやぶらる。我等が悪業は金剛のごとし、尼倶類樹のごとし。法華経の題目は羊角のごとくせうれう鳥の如し。琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄の如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくをもひて常に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ふべし。
(平成新編0353~0354・御書全集0940~0941・正宗聖典1015・昭和新定[1]0534~0536・昭和定本[1]0392~0393)
[文永03(1266)年01月06日(佐前)]
[真跡・水戸久唱寺他十一ヶ所(10%以上40%未満現存)、古写本・日目筆 宮城一迫妙教寺]
[※sasameyuki※]