『四条金吾許御文(八幡抄)』(佐後) | 細雪の物置小屋

細雪の物置小屋

御宗祖御開山遺文DBを中心に投稿します。
[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 かゝる不思議の候上、八幡大菩薩の御誓ひは月氏にては法華経を説いて正直捨方便となのらせ給ひ、日本国にしては正直の頂にやどらんと誓ひ給ふ。而るに去ぬる十一月十四日の子の時に、御宝殿をやいて天にのぼらせ給ひぬる故をかんがへ候に、此の神は正直の人の頂にやどらんと誓へるに、正直の人の頂の候はねば居処なき故に、栖なくして天にのぼり給ひけるなり。
 日本国の第一の不思議には、釈迦如来の国に生まれて此の仏をすてゝ一切衆生皆一同に阿弥陀仏につけり。有縁の釈迦をばすて奉り、無縁の阿弥陀仏をあをぎたてまつりぬ。其の上親父釈迦仏の入滅の日をば阿弥陀仏につけ、又誕生の日をば薬師になしぬ。八幡大菩薩をば崇むるやうなれども、又本地を阿弥陀仏になしぬ。本地垂迹を捨つる上に、此の事を申す人をばかたきとする故に、力及ばせ給はずして此の神は天にのぼり給ひぬるか。但し月は影を水にうかぶる、濁れる水には栖むことなし。木の上草の葉なれども澄める露には移る事なれば、かならず国主ならずとも正直の人のかうべにはやどり給ふなるべし。然れば百王の頂にやどらんと誓ひ給ひしかども、人王八十一代安徳天皇・二代隠岐法皇・三代阿波・四代佐渡・五代東一条等の五人の国王の頂にはすみ給はず。諂曲の人の頂なる故なり。頼朝と義時とは臣下なれども其の頂にはやどり給ふ。正直なる故か。
 此を以て思ふに、法華経の人々は正直の法につき給ふ故に釈迦仏猶是をまぼり給ふ。況んや垂迹の八幡大菩薩争でか是をまぼり給はざるべき。浄き水なれども濁りぬれば月やどる事なし。糞水なれどもすめば影を惜しみ給はず。濁水は清けれども月やどらず。糞水はきたなけれどもすめば影ををしまず。濁水は智者・学匠の持戒なるが法華経に背くが如し。糞水は愚人の無戒なるが、貪欲ふかく瞋恚強盛なれども、法華経計りを無二無三に信じまいらせて有るが如し。涅槃経と申す経には、法華経の得道の者を列ねて候に■(=虫+羌)■(=虫+良)蝮蠍と申して糞虫を挙げさせ給ふ。竜樹菩薩は法華経の不思議を書き給ふに、昆虫と申して糞虫を仏になす等云云。又涅槃経に法華経にして仏になるまじき人をあげられて候には「一闡提の人の阿羅漢の如く大菩薩の如き」等云云。此等は、濁水は浄けれども月の影を移す事なしと見えて候。されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給ふとも、法華経の行者を見ては争でか其の影をばをしみ給ふべき。我が一門は深く此の心を信ぜさせ給ふべし。八幡大菩薩は此にわたらせ給ふなり。疑ひ給ふ事なかれ、疑ひ給ふ事なかれ。恐々謹言。
(平成新編1524~1526・御書全集1196~1197・正宗聖典----・昭和新定[3]2188~2190・昭和定本[2]1823~1825)
[弘安03(1280)年12月16日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]