「自閉症スペクトラム」と分かった私は、母や中学の頃の担任の先生(未だに繋がりがあり、教員になった際も連絡してくれた)にインタビューをしてみたので、「子供のころの私」がどんな感じだったかを客観的視点から掘り下げていこうと思います。

 

 まず、前提として母は基本的に私のことを「問題のない子」「手のかからない子」「自立した子」と見ており、しつこく掘り下げてインタビューした内容になります。

 

 

①小学校入学前

 生まれつき成育はほぼ問題なく、普通にミルクを飲み(ヘビスモ母のニコチンに侵された母乳だったかどうかは怖くて聞けなかった・・・。)、排泄はし辛いタイプだったそうです。便秘は生まれつき。

 

 「ギャーン!(お腹空いたー!)」と泣くことがなかったので、時間管理でミルクを与えていたそうです。動き回ることもほとんどなく、「股関節の発達が悪い」と検診で言われたそうです。確かに、運動部に所属していたころは柔軟を熱心にしても、前後開脚は180°できましたし、Y字バランスも右足ならできましたが、普通の開脚は苦手でした。左足のY字バランスも膝が伸び切ることは無かったです。今もストレッチの時に足を回していると左股関節からゴリゴリ音が鳴るので、関節に少しだけ異常があるのかもしれません。

 

 

 歩き出し自体は標準で、ハイハイからのつかまり立ち、歩き出しの流れも特に支援せず放っておいたら勝手に歩き出していたとのこと。

 

 そんな乳児期から幼少期はとにかく寝てばかりいて、起きていても泣くことがなかったそうです(それをちょっとはおかしいと思ってくれ・・・。)。そこから「手がかからない子」という印象を受けたとな。

 

 

②小学校時代

 上記のように感情表現は乏しいものの、スキンシップは好きだったらしく、低学年まではよく両親とハグしていたそうです。今、夫ともスキンシップを持つのは好きで、外出時には良い年になってきたのに手を繋ぎたくなりますし、ソファに寝転がる夫の上に乗っかることもよくあります。人との肌を通じた触れ合い自体は好むところだったようですね。(※だが背中を触られることだけは苦手

 

 ただ、悪いことをしても「自分は悪くない。」という確固とした信念があり、父に新聞紙で殴られるようなことになっても泣かないし、謝りもしないといった調子だったそうです。そこから、母は「頑固な子なのねぇ。」と思っていたそうです。(※こだわり

 

 例えば、兄が(急に生々しい話になりますので注意!)朝から母とパンツやシーツを洗っているのを見て、「おもらしした!今思うとおそらく違う・・・。)」と思った私は、「内緒ね。今日、お兄ちゃんがおもしらししたんだよ。」と家族ぐるみで付き合いのある女友達に言ったら、その子がこれまためちゃくちゃ口が軽くて、その場に偶然現れた兄に向けて「おもらし・・・!」と呟いてしまい(どうなってんだその口の軽さ)、家で新聞紙殴られ騒動が起きました。

 

 この時の自分の心理はまあまあ覚えていて、いつも兄には陰ながら暴力や暴言を振るわれたり、ずるい行動で親の関心を引いて甘やかされたりしていることへの「復讐心」からの「陰口」だったので、「正当な理由がある!」という思いでした。(※こだわり

 

 話すことが苦手で、そんな思いがあることを説明できず、黙ったまま言い訳せずにじっと嵐が過ぎ去るのをただ待っていました。

 

 そして、私は親の後追いをせず、家族で外出したら好きなところに勝手に行くけれど、帰巣本能があるのでいつの間にか戻ってくる、というような行動を取っていたようです(だから親に必死に「メイー! どこー!?」と探されず、「(そのうち戻ってくるでしょ。)」)。と放置されていました。※たぶんこれも自閉症スペクトラムの症状の一種だと思う。でなければ自分でもまだ気づいていない自己パーソナリティの問題か。

 

 幼少期からおもちゃで遊ぶ時も、気に入ったものが固定されていたらしく、同じものばかり使い続けていたようです。(※反復行動

 

 祖父祖母の家や友達の家などに泊まりに行く、となった時は、大抵その環境の変化に対応できず、結局眠れなくて夜中に「メイちゃんが帰りたがっている。」と両親が呼び出されていました。(※変化が苦手

 

 そして友達が少なく、遊んでも男の子とばかりだったので、ここに関してだけは母も心配していたそうで(「女友達がいないのって問題でしょうか?」的な相談を個人面談でしていたとのこと。)、たまに女の子と遊ぶとほっとしていたらしいです。(※人間関係の築き辛さと継続し辛さ

 

 小学校の時は特に男子への言動が厳しく、掃除中に戦いごっこを始めたら蹴り上げて叱り、ADHDっぽい乱暴者な男子とは格闘していました。

 

 それでも母は歴代の担任から「乱暴者」と注意を受けたことがないと言っていますが、一度、前触れもなく「なんか良い音しそうだったから(という理由だった気がする。)。」(※衝動性)と、目の前にいた男子の頭を木琴のバチでぶん殴ったことがあり、母が謝罪の電話も入れていたのを覚えていますが、それでも乱暴者って思わないって・・・。歴代の担任の先生もどうした・・・?

 

 一応、友達に噛みついたり(文字通り物理的に。衝動性。)、蹴ったりしたエピソードは家で自分自身から語っていたそうなのですが、自分的にはコミュニケーションのうちの一つ(兄の友達とも遊ぶことが多く、格闘ごっこが多かった。現代でやると結構な問題エピソードなのですが。)と捉えていたようで、母も「あらそうなの~。」としか受け止めていなかったそうです。

 

 反抗期というものがあったのかどうか判別しにくかったそうで、理由が、いつもぶっきらぼうな話し方をしていたり(男友達の影響もあり?)、笑顔を見せない(※自閉症スペクトラムの典型的症状)のがノーマルだったので、それが「反抗期かなぁ・・・? でも言うことに反抗するわけじゃないし・・・?」と思っていたようです。

 

 自閉症スペクトラムはLDも併発することが多いそうなので、算数(数学)が壊滅的だったのは、私にLD的要素もあったからかもしれません。それを母は、「数字が嫌いなんだろうなぁ。」程度にしか思っていなかったようです。心理検査では、「大卒だからその検査は必要ない。」と言われ、LDかどうかは分かりませんでした。

 

 一方で、読み書きは得意で(ブログを読んでてンなわけあるかとツッコミがあればコメントで・・・。)、話すのは苦手(だから手が出る。衝動性。)でした。そのため国語の成績はいつも特に勉強しなくても、ある程度の点数が取れていたり、実家に残されていたわずかな幼少期の作文と教え子達の作文と比較してもかなり表現力が高く(自分で言うのもアレですが・・・。)、これは「過読症ハイパーレクシア - Wikipedia)」なのかな? と思いました。これは一説に過ぎないので確立されている情報ではありませんが、自閉症スペクトラムの症状の一つとして発症するという説があります。

 

 一番古い記憶が、衣装ケースいっぱいに詰め込まれた絵本をひたすら読む自分で、2、3歳児の時から本ばかり読んでいました。母は「作文はいつもすごかった。評価も良かった。」と言っていました。教員としての目線で自分の作文を読んでも比喩表現に優れている部分が見られるので、そうだったのかな・・・。でもそんな特殊能力みたいなものは心理士さんからは指摘されていないから勘違いかな・・・ってところです。

 

 と、「国語は得意でした(ドヤァ)。」と胸を張って言えるようなものではなくて、文法の活用形を書けとか、この古文の作者は誰? とか、そういう問題は苦手でした。単純に文章を書いたり、読んだりすることにしか興味がないから覚える気がなく、勉強する気も起きないんですよね。そういう問題が出てくる時は点数を落としていました。

 

 

②中学校時代

 ここからが中学の担任の先生にインタビューした内容です。電話でひたすら語り合っただけで文章に残っていないので、記憶を頼りに書き起こします。

 

 担任の先生に「私ってどんな子でしたか。」と尋ねると、まず初めに「こだわりが強い子」と言いました。(的確ゥ!!)(まだ「自閉症スペクトラムでした!」って言ってないのに!

 

 「こだわりが強くて、自分の中に確固とした信念があって、それに準じて行動しているから、周りから見ると変なところにこだわっているなとか、変な行動しているなとか、そういう風に見えていたよ。」(※本質と非本質的な部分が分からないヤツゥ!

 

 「でも、そのこだわりの強さで意図的に誰かを攻撃しようとしたり、傷つけようとしたりはしていなくて、周りもそういうところを認めて受け入れていたから、特に問題はなかったと俺は思うよ。そのこだわりの強さも、メイの良いところだと思っていたし。良い方向に伸びたらいいなーと思っていたな。

 「パーソナリティ診断では『毒舌家』って言われましたが?

 「うん。『毒舌家』だったわ! でも、それがあっても周りからは認められていたよ。

 「そう言われてみると、わりと年上受けしたり、周りからは可愛がられるタイプだったとは思いますが・・・。

 「努力家で、きちんとしようって正義感があるからだろうね。

 

 「ただ、問題児とつるんでいた時に起こした事件(ここには書けない・・・。)は笑っちゃったね! 〇〇はしたけど、〇〇はやっていないって言い分を聞いた時、メイは正直で嘘をつかないと信頼していたから、その言い分は信用していたな。

 

 このとある事件について、母は「好奇心旺盛だから、何かしでかすとは思っていた。」と語る。

 

 そして母は、「家で暴れたり、物を壊したり、暴言を吐いたりすることもないから、問題といえばそれだけだねー。」と呑気に受け止めていました。

 

 「でも、そのこだわりの強さで仕事で人と衝突することがあるんですよ・・・(幾つかエピソードを語る。)。

 「それはメイは悪くないよ。周りが悪いわ。でも、上手く立ち回るって方法を身に付けるべきだな。言い方を考えるとかな。お前のこだわりは職場の環境や状況を良くしようという思いでやっていることだけど、それについていくのが面倒だと思うやつが大半だよ。だから、それについてきてくれた人たちのことを尊重して、少しずつ味方を増やすようにしていけばいいんだ。

 「ま、俺もみんな発達障害の要素は多少なりとも持っていると思っている派だよ。だから、精神病になって苦しんでいるところだろうけど、あんまり医者の言うことに翻弄されないで、自分が良いって思う方法を模索するんだな。そんで、頑張りすぎないようにしろよ。

 

 と、最終的に全肯定してくれて終わりました。私の正義感が純粋なものであると中学校時代に見てきた担任の先生が故の発言に、心が少し救われました。

 

 

④高校時代

 ここからは私のことをよく知る友達に話を聞いてみようかとも思ったのですが、面倒だったので自分の回想だけに留めておきます。(※人付き合いの苦手さ

 

 ここで急にリア充的な生活になりました。友達が急に増えたのです。小・中はド田舎出身(呪術廻戦の釘崎野薔薇の言葉を借りるなら、「田舎から都会まで4時間かかる田舎」)で、人数も少なく、グループも小グループがいくつかでまとまっていました。それが、高校に入って周りに人が増えたために、友達付き合いというのが何となくできるようになりました。ニヒヒ

 

 といっても、私目線で言うと本当に仲が良かったなと思うのは男友達でした。特定のグループ一つだけに所属している、というより、状況によって使い分けている、という感じです。

 

①リア充女子グループ(同じ部活の子も別の部の子も含まれる、8人ぐらいのグループ)

②同じクラスでちょっと一癖あるけど気安く接することができる男子2人組。たしか、委員会が同じで仲良くなったのかな?(内一人は委員会に所属していなかったけれど、なぜか一緒に行動していた。)

③それから、特定を避けるために部活名は言えませんが、女所帯の部活にいた一人のモテない系男子。この一番最後のモテない系男子が一番仲が良かったと思っています。

 

 それはなぜかと言うと、何でもかんでも肯定して受け入れてくれていたから。その性格のせいで周りにあふれる女子たちに良いようにこき使われていましたが、「たまにはイヤって言えよなー。」「うーん。でもいいんだ。別にパシらされるの、嫌いじゃないし。」と、温和な性格で、協調性がなくって同じ部の人にも毒舌をかましてしまう私の中での癒しでした。

 

 協調性がない、共同作業が苦手。そんな私は、そこそこ大所帯の部活に所属していました。その部活の同学年の仲間たちは、大きく2つのグループに分かれており、「真面目に一生懸命練習するグループ」「サボりがちで適当に大会前だけ練習を頑張るグループ」とに分かれていました。

 

 そして私は、友達は後者のグループに多かったものの、真面目な性格なので練習自体は頑張るタイプであり、弁図の中心にいるような立場でした。そのため、前者のグループに「後者のグループのヤツらにちゃんと練習するように言ってよ!」などと度々言われていましたが、後者グループの子たちは才能がある子が多く、サボっていてもちょっと練習すればそこそこの成果を挙げていたので、「結果出してるんだから放っときゃいいじゃん?」とのらりくらり交わしていました(そもそも私を矢面に立たそうとしないで自分たちで言えばいいのに。)。

 

 友達付き合いを覚えても『毒舌家』は治らず、練習をサボりまくっといて大会前に「失敗する・・・どうしよう・・・。」と泣いている同学年の女子相手に、「そりゃ、あんだけサボっておいて成功するわきゃないでしょ。みんなの足引っ張ることになるって今更になって分かったの?」なんて、追い打ちをかける、めちゃくちゃな毒を吐いていました。

 

 しかし、同学年にも相手関係なく物申すところが(※相手の感情の機微が分からないだけ)何故か評価され、3年生と顧問で役員選抜の話し合いが行われた際、部長に推薦されてしまいました。

 

 「部長って怒られる役でしょ? 絶対やりたくない。

 

 女子が多いものだから人間関係トラブルの多い現状を見て、この人数を統率していくのは無理無理無理ィ! と判断した私は、裏技を使いました。自己パーソナリティの真面目さ故に、生徒手帳に記載されている校則をしっかり記憶していたのです。

 

 それは、「委員会で委員長や副委員長を担当する者は、他の部や同好会において部長や副部長になることはできない。(という校則は教員も忘れているくらいなので、やろうと思えばできた。)(実際、別の部活で兼任している者もいた。)」というもので、私は仲良し男子が委員長だったので、副委員長をやっていたのです(そしてもう一人の仲良し男子は委員会に入っていないのに何故かいつも委員会活動にくっついてきていた幽霊委員だった。)。

 

 「すみませんが、校則にある通り、部長になるのは無理です。

 

 と断ると、なぜか顧問にめっちゃ怒られました。何故。理不尽。

 

 そんな感じで、部活動に気合を入れつつも、以前お話しした「多嚢胞性卵巣症候群と子宮内膜症~医師との確執~ | 発達闘病先生 (ameblo.jp)」の影響で、予定よりも学力の低い高校に入っていた私は、そこそこ真面目に勉学に励んでおり(それでも数学は赤点ギリギリや補習を受けることも)、真面目さで稼げる内申点を順調に得られ、推薦制度を使って大学に進学した次第です。

 

 ちなみに、仲が良いモテない系男子は進学先の地が同じ(学校は別)だったので、先にマンションを決めていた私は安心感を求めて「お前もここに住め。」と、隣の部屋に越させました(めちゃくちゃ強引だと我ながらに思う。)(それに応えるヤツもヤツだが。)(ちなみに男女関係は一切ありませんでした。)。

 

 自立心が強く、入学当初は「卒業後は就職」と決めていたので、在学中は資格取得に励んで幾つも使えるんだか使えないんだか分からない資格を取得し、現在は教員の資格と免許証を合わせると12種類の資格を持っています(ほとんどがムダに終わった・・・。)。

 

 資格取得にはお金がかかるものもあったのですが、母は「資格取得が趣味なのかしら? なんにせよ悪くない趣味よね~。」と惜しみなく金を出してくれました。この金払いの良いところだけは好きですよ。

 

 

 結果的に、今は大学→教員という、高校入学時には思いもしなかった、更に言えば教育大に入っておきながら教員になる気もなかった私がなぜ教員になったかは、また別の機会に。

 

 読む人によっては、マジで特定されそうで怖いです・・・。でも書きたくて仕方なかったので、やはり「もしかして・・・〇〇!?」と気付いても知らぬフリをしてください・・・。

 

 

 今回は7,000文字も打っています。読むのもしんどぉーっと思ったことでしょう。最後までお付き合いくださった方、いらしたらありがとうございました。

 

 ただひたすら私は自分のことをアウトプットしたいがために書いたものなので、参考になるところがあるのかないのか分かりませんが、何かの為になったとしたらものすごく幸いです(ここにきて崩れる国語力)。

 

 それでは、サロンパスを肩と肩甲骨に4枚貼って、柔軟体操と筋トレストレッチして寝ます。

(これから呪術廻戦第2クールが始まるから、寝られるかどうか・・・。)