(前回「認知症があっても「役割」があれば」はこちら)

 

しかし、歳を重ねると、

若い頃は簡単にできていたことも

できなくなってきます。

栄枯盛衰、いずれは生命の灯も

消えゆくのが生物の運命です。

ですから若い頃担っていた役割は

必ず後進に譲る時が来ます。

 

認知症になったら、

できないことも当然増えてきます。

 

では、どうすれば人生の最後まで

「役割」を担い、務め上げることが

できるでしょうか。

 

それは「役割」とはどういうものか、

というところから考えてみることにします。

 

前回の記事で、私は

家では「夫」であり、「父親」

職場では「介護士」であり、「課長」

と言いました。これらの役割には

例えば、家に対しては、

「お金を稼ぎ、生活を支える」という

期待があり、それを全うすることが

役割を果たすことであると書きました。

この役割を「作業的役割」と言います。

 

いっぽう、

作業的役割を果たさなくても

存在しているだけで良い、

という役割があります。

例えば、友人関係などです。

いると安心する、嬉しい、楽しい

落ち着く、といった気持ちに

ならせてくれる存在です。

 

これを「関係(情緒)的役割」と言います。

 

ALSの母親を介護する娘の

著書を読んだことがあります。

 

『もっとも重要な変化は、私が病人に

期待しなくなったことだ。治ればよいが

このまま治らなくても長く居てくれれば

よいと思えるようになり、そのころから

病身の母に私こそが「見守られている」

という感覚が生まれ、それは日に日に

重要な意味を持ちだしていた。』

(『逝かない身体ーALS的日常を生きる』川口有美子)

 

母親は一般的に言われる母親の役割を

果たしてはいないが、存在そのものが

娘に幸福感を与えていることで、それが

情緒的役割を果たしているのです。

娘の、この感情は、母親にも安寧な心を

与えているのだろうと想像します。

 

作業的役割が果たせなくなっても、

関係(情緒)的役割はつくることができる。

そのことを私たちは重視すべきだと思います。

 

(つづく)