この間の記事、「0歳児の太鼓 」のことで、もうひとつ考えることがありました。

全く私の勝手な考えで、根拠というものがないことを

前もってお断りしておきます。(ペコリ)



何を考えたかというと、「ありのままに見ることの難しさ」です。



「0歳児の太鼓」記事で、ソルさん からコメントをいただきました。

「自分の子どもはバチを舐めていた」と書いてありました。

そうなんですよね。太鼓を知らない0歳児の子どもにとっては、

バチはただの棒。それが何であるか、いろいろと試してみるんでしょう。

そのひとつの動作が「舐めてみる」であった、ということでしょうか。

その棒が「太鼓を叩くためのものである」ということの理解は、

経験してみて学習するものなんでしょう。


ところが、私たちにとっては、その棒を「太鼓を叩くために使うバチである」と、

すでに知っている。しかし、初めから知っている訳じゃない。

例の0歳児のように経験して学習するわけです。

このように、世の中の物は出会うことによってそれが何であるか、

ということを学習していきます。鉛筆は字や絵を描く物。

消しゴムはそれを消す物。大根は食べるものだし、鍋は調理に使います。

これらの物の意味を初めから知っている訳じゃありません。

経験してそれが何であるか、を私たちは知っていくことになります。


このように、私たちは膨大な「過去の経験」を頼りに生活しています。



また、こんなことも言えるか、と思います。

それが太鼓のバチだと知っている人にとっては、

もうそれを見るとバチにしか見えなくなる、ということです。

「すりこぎにも見える」なんてツッコミは止めてくださいね(笑)

それ以外の用途を思いつくことは難しい。分かりやすく言うと、

「思い込み」により、自分の認識や行動が規定されてしまう、ということです。

すりこぎも太鼓の横に置いてあったら、バチに見えるんじゃないですか(笑)


それが思い込みです。



だまし絵などでもよくありますね。

正しいケアマネの歩き方  ~ケアマネタマゴが贈るケアマネ道!~

老婆と若い女性。2つ見えますか。


このように、一方にとらわれると、もう一方の見え方を邪魔する。

一度見つけた意味にとらわれて、他の見方を見失ってしまう、ということです。



つまり、「ありのままを見る」というのは、「過去の経験」や「思い込み」にとらわれずに見るということなのですが、それはとても難しいことなのではないか、と思うのです。



例えばこんな話はどうでしょう。



ぐうたらで、遊び呆けて、飲んだくれのダメオヤジが突然、脳梗塞で倒れた。

左半身麻痺が残った。介護するのは同居していた娘。

しかし、一緒に遊んでくれた記憶がない。

優しい言葉をかけてくれた思い出もない。

小さい頃から怒鳴られ、殴られていた。

こんな過去を持つ娘が父親を介護することになった。



どうするでしょう。



よっぽどのことがない限り、娘は父親の介護なんてできないでしょう。

だから、父親は介護サービスを利用した。

仕事として関わる介護職はどうするでしょう。

その人なりの介護をしていくのでしょう。



この差はなんでしょうか。

娘が非情だから?果たしてそうでしょうか。



この左半身麻痺の男性を見ると、麻痺によって生活を送ることに困っている人。

ありのままに、それだけを見ると「介護が必要だ」と、

手をさしのべることができるでしょう。



しかし、娘にとってはダメオヤジに対する「過去の経験」というものが邪魔をして、

介護することをためらってしまう。

あんなダメオヤジ、介護してやる気にもなれない。

そう思っても仕方がないのかもしれません。



これが、

ダメオヤジを「ありのままに見ることのできる」仕事として関わる介護職で、

過去の経験から「ありのままに見ることのできない」娘との差なんだと思います。



認知症の介護をしている家族に「認知症の行動障害をありのままに受け入れましょう」と言ってしまうこと。長年のいろんな家庭の事情をおもんばかることなく、無神経に家族介護を強要すること。


私自身のことでもあります。戒めなくてはなりません。



「この記事、伝わりますか?」ちょっと不安…。

   ↓↓↓
正しいケアマネの歩き方  ~ケアマネタマゴが贈るケアマネ道!~-ブログランキング