どうも、ななしです。
令和七年七月十七日の流れ
昨日と同様、09:00〜18:00までお仕事。
この日も雨が降ると思ってたけど、降らずに雲り時々晴れでした。
帰宅後は疲労ですぐ寝た。
令和七年七月十八日の流れ
この日は朝から晴天で暑い


↑の場所は、国道16号沿いにある“リンガーハット 春日部豊春店”前。
昨日と同様、09:00〜18:00までお仕事。
午後の16時頃から社員の方が草刈り機を使って、自分が作業している場所付近で草刈りを始めた。
自分が風下だったので、草を刈った時に出る雑草の臭いがめちゃくちゃ飛んで来て迷惑だった(笑)
帰宅後は少しネットサーフィンしてから就寝。
令和七年七月十九日の流れ
朝起きてからガジュマル達に霧吹きで水を上げた後、仕事で着ていた作業着を洗濯して干した。
午後は八月に赤岳と、富士山へ登山しに行く為の防寒着や寝袋を物置き部屋から取り出して準備していました。
その後、就寝前にYouTubeで、【幕末の元凶】吉田松陰のクレイジーすぎる人生とは?【幕末解説】という動画を視聴しました。
日本一周の旅で青森県外ヶ浜町にある“吉田松陰 乗船の場”で吉田松陰の名前を知っていたので、気になって動画を見たら想像以上に破天荒な行動を起こしていた事に驚きました。
幼少期の頃の名前は杉寅次郎で6歳の頃、吉田太助という方の養子になった事で吉田家になり、兵学者の家系である吉田太助と叔父の玉木文之進から教育を学んだそうです。
吉田松陰が20歳の時に九州へ行き、葉山左内の海防論を知り、大きく心を動かされた松陰は海外列強と渡り合うには、西洋の戦い方を知る必要があると考え、江戸で西洋兵学を学ぶ決意を固めました。
その後、熊本藩の攘夷派である宮部という方から東北へ勉強しに行かないか?とお誘いを受け、藩に届手を出したけれど中々許可が降りず、痺れを切らして脱藩してまで行きました。
年月が過ぎ、ペリーが来航した時に弟子の金子重之輔と共に黒船へ密航し、ペリーにアメリカへ連れて行って貰うように交渉したが失敗し、密航した罰で長州藩の野山獄へ入る事になりました。
そこで囚人たちに講義した事がきっかけで教育の面白さを知り、出所後も自宅謹慎の身でありながら出来る事として松下村塾を開き、教え子である久坂玄瑞や高杉晋作を輩出しました。
その後、日米修好通商条約をきっかけに幕府の要人を暗殺する計画をしましたが、それを実行する前に攘夷派の筆頭、梅田雲浜の周辺調査によって捕まってしまいました。
始めは取り調べに対して知らないと否認していたそうですが、松陰は聞かれてもいない老中「間部詮勝」の暗殺計画を喋ってしまい、危険人物扱いとなって斬首されてしまいました。
29歳という若さでこの世を去ってしまいましたが、行動力の凄さには忘れられないほどのインパクトがありました。
詳しく知りたい方は、動画のタイトルを検索して見てね。
令和七年七月二十日の流れ
朝6:30頃起きて、7時にノムジュに水やりをしました。
10:28分頃晴天で猛暑の中、春日部中学校内で行われているの選挙投票場所へ行き、清き一票を入れました。

帰宅後、登山に必要な衣類などを洗濯して干した後、13時半頃に春日部駅東口前にある日高屋へ行き、とんこつ味玉入りラーメンにトッピングでネギを入れて食べました。

外は暑いけど、おいしくて手軽にタンパク質と炭水化物を摂れるから良し!
帰宅後、登山靴とテントとマットを洗って外に干すのに結構時間がかかってしまった・・・
その後、コインランドリーで防寒着などを高温乾燥している間に、ウエルシアでミネラル麦茶などを購入後、乾燥した物を回収した。
帰宅後はシャワー浴びた後、疲れが出たからか眠くなってしまい就寝。
以上
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