分数の横線(横棒)を初めて書いたのは誰か | メタメタの日

 テレビで,世界の7大学と日本の7大学の学生がクイズのような問題を競い合う「ブレインワールドカップ」という番組があった。(7月27日フジテレビ)
 その4問目に,分数の横線を考案した数学者を問う問題が出た。
 自称算数教育史家としては答えられなくてはいけない問題だったが,今まで本で読んだ記憶がなかった。答は,フィボナッチ(ピサのレオナルド)で,数校が正解していた。
 しかし,フィボナッチは,13世紀初めのヨーロッパにアラビアの数学を伝えて,「中世の暗黒時代」(という言い方は古いが)を終わらせたのだから,フィボナッチが初めて分数の横線を考案したというより,彼の前に分数の表記法を考案したアラビアの数学者がいたのではないかと思った。
 番組では説明がいっさいなかったので,『カジョリ初等数学史』(小倉金之助補訳)にあたってみた。すると,アラビアの分数について,
「(分数は)分子と分母とのあいだに横線を引かずに,インド人のように書いた」(147頁)
とあり,インドの分数について,
「分数は,現在のように,分母と分子とのあいだに直線がなく,分子は分母の上に記された。整数は1を分母とする分数により書かれた。整数と分数とからなるものは,整数の部分を分数の上に書いた。すなわち
1     1
1 = 1-
3     3
のように。」
(136頁)とあった。
 そして,フィボナッチが分数の横線を書いた『算板書』“Liber abaci”(1202年)の該当箇所は,
http://media.npr.org/assets/img/2011/07/14/siena-53_custom-667eed80b9fba806a5445bb23fc4b1b7edf277be-s6-c30.jpg
などで確認できる。
 
 つまり,分数は,古代エジプトにもバビロニアにもあったが,いまの私たちが使っているような分数表記は,フィボナッチの1202年の本から始まるということになる。さらには,分数の分母・分子に使うインド(アラビア)数字自体を,ヨーロッパは,フィボナッチの本で知ったのだった。(ただし,ヨーロッパでのインド数字の初出は,976年のスペインで書かれたもの。『カジョリ初等数学史』159頁)
 1202年以降,ヨーロッパでのインド数字の普及は遅々としていて,ドイツ,フランス,イギリスで,インド数字が採用されるのは,15世紀の中頃以降だった(同書170頁)し,イギリスでは16世紀中頃まで商人は記帳にローマ数字を使っていた。(同書253頁)
 +-×÷や=の演算記号の考案と使用も遅かった。
 『カジョリ初等数学史』と片野善一郎『数学用語と記号ものがたり』(2003年)をまとめると,初出は以下のようになる。
 過不足の符号としての+- 1489年 ヴィッドマン(ドイツ)『算術』
 計算記号としての+-   1514年 ホェッケ(オランダ)『算術』
 等号=       1557年 レコード(イギリス)『知恵の砥石』(代数)
 計算記号としての×    1631年 オートレッド(イギリス)『数学の鍵』
 計算記号としての÷    1659年 ラーン(スイス)『代数』
(演算記号の普及の過程で,数字の式の代わりに文字の式(方程式)を使う「代数」が,1591年ヴィエト(フランス),1637年デカルト(フランス)「幾何学」で確立していく。)

 フィボナッチが現在の分数の形を決めたのが1202年,÷記号を使って除法(商)を表すことが始まるのが1659年。つまり,数字を使った分数からは400年以上,文字を使った分数からも70年近く経ってから,÷を使った式表現が始まったことになります。
 また,×記号を使って乗法(積)を表すことが始まるのは1631年ですが,その前から,また,それとは関わりなく,数字と文字(あるいは文字と文字)を連記してかけ算の結果(積)を表していました。(1622年フォリン(ドイツ)『代数』,1621年以前ハリオット(イギリス)『解析述の実際』など)
 したがって,a÷b
  a
=― 
  b
において,わり算の式が最初にあって,その結果を分数の形で書くようになったのではなく,分数がもともとあって,それを÷を使って式に書くようになったのだし,またa×b=ab において,abは,もともとあった×が省略されたのではなく,もともとの形だったabに×が挿入されるようになった。歴史的にはそういう順序になります。
 現在から見ると,a÷bc はa÷(bc) と解釈するだけでなく,a÷b×c という解釈も不可能ではないのに,なぜ,1659年に除算記号として÷が考案されてから,400年近く一貫して前者の解釈だけだったのか。
 アルファベット文化では,アルファベット文字の連記は「単語」としてひとまとめに理解されるからだろうかとも推測したが,そもそも,もとの形が文字の連記だったのだからその方が「自然」で,×で分けるという「作為」にはエネルギーが必要だったのだろう。
 また,数字と文字の連記という形としては,度量衡の表記があっただろうから,その数字が代数で文字に代わっただけという連想も可能だったのだろう。6mは2mの何倍か,は6m÷2mという式に書き,それを6×m÷2×mとは解釈しなかった。
 乗(積)除(商)の表記に2通りがある文字式の体系の解釈に歴史的経緯があったとしても,そういう歴史を共有しない別の文化圏(たとえば日本)に移入されたときや,歴史を共有する文化圏の中であっても後から生まれた世代にとっては,あるいは,文字式の表記に抽象代数学やプログラミングという新しい文化が関わってくると,文字式の体系の解釈が揺らぐということがあり,それが今なのだろう。