「存在しないものを使って背理法をする怖さ」 | メタメタの日

 直前のアーティクルの後半について、無粋星人さんと積分定数さんから「混乱している」というコメントをいただいた。読み直してみたら確かに混乱していたが、しばらく考えてもその混乱をどう除去したらいいのかわからなかったので、原文のまま曝してある。
 昨日丸一日考えてみたら、少し見えてきた。
 背理法については、4年前の20097月から8月にmixiで「無から有が生ず」というトピックを立てて議論をした。そのときに自分では一応の理解に達したと思っていたので、先のアーティクルはそれを踏まえて書いたのだが、その理解に勘違いがあって不十分なものであったことが昨日わかった。
 mixiでの議論は、「背理・逆説・パラドックス」コミュの「無から有を生ず」トピ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=44291772&comment_count=715&comm_id=89931
 私の発言は、
http://ameblo.jp/metameta7/archive1-200908.html
http://ameblo.jp/metameta7/archive1-200907.html
 さて、次のパラドックスがあります。(野崎昭弘『詭弁論理学』165頁から)
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 すべての整数の中で、最大のものをMとおく。
 一般に、M+1≧M
 Mは最大の整数だから、M≧M+1
 ゆえに、M=M+1
 両辺からMをひくと、10
 ゆえに、10に等しい。
 このパラドックスのタネは、「最大の整数M」という、ありもしない数を考えたところにある。(略)
  10に等しい。これは矛盾である。ゆえに、最大の整数は存在しない。
 という背理法の一部にすぎない。
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「存在しないものを扱って背理法をする怖さ」については、小島寛之さんが次の「日記」で別のパラドックスで論じています。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20080822
 つまり、存在しないものを存在すると仮定すると、「迷題」が「証明」されるわけではなく、存在しないものが非存在であることが証明される。これが背理法の一般的な使い方でしょう。√2を表す有理数が存在しないことや実数が可算でないことなど、存在しないものを存在すると仮定すると矛盾が導かれることから、存在しないものが存在しないことを証明するわけです。
 つまり、
A)存在しないものを存在すると仮定する。→矛盾が導かれる。存在しないものが存在しないことが証明される。
B)存在するものを存在しないと仮定する。→矛盾が導かれる。存在するものが存在することが証明される。今回の積分定数さんのコメントにもあります。この証明の具体例は、
http://ameblo.jp/metameta7/entry-10313153294.html
 以上(A)(B)が背理法。
C存在するものを存在すると仮定する。→矛盾しない。
 ただし、(B)(C)の「存在するものが存在すること」の証明は、(B)のように背理法を使うのではなく、普通は、存在するものを構成することでしょう。例えば、三角形の内心の存在(3つの角の二等分線が1点で交わること)は、2本の二等分線の交点が、残りの二等分線上にもあることを示すように。
 問題は、次の(D)なのです。
D)存在しないものを存在しないと仮定する。
 これがパラドックスを生じ、どこがおかしいのかを議論したのが、4年前のmixiの議論でした。
 次のようなパラドックスです。(現在の考えで表現を変えてあります。)
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①最大の自然数は存在しない(と仮定する)。
②最大の自然数が存在しないのだから、最大の自然数の次に小さい自然数も存在しない。
③最大の自然数の次の次に小さい自然数も存在しない。
④以下同様にして、すべての自然数が存在しない。
⑤しかし自然数は存在する。④と矛盾する。
⑥したがって、①の仮定が間違いで、最大の自然数が存在する。
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 どこがおかしいのか?



(すぐ続く)