「江戸時代には角度という概念がなかった」という和算史の常識 | メタメタの日

「江戸時代には角度という概念がなかった」という和算史の常識を,私が初めて知ったのは,『塵劫記』(岩波文庫,1977年)の大矢真一さんの校注でだった。

「わが国には角度の観念がなかった。したがって傾斜は水平に一尺進む間にどれだけ高くなるかで表わした。すなわち勾配である。」(168頁)

 えっ,どういうこと?と調べた成果は,『和算で数に強くなる!』(ちくま新書,2009年)第6章「坊ちゃん、角を立てる」で書いた。

 江戸時代に角度の代わりにあったのは,勾配であり,方位であり,弧の長さであった。(このときは,今回知った「天度」

 

 

にまでは,考察が及ばなかった。)


 

●『塵劫記』での勾配の問題は,水平に一尺進んで○寸高くなったとき斜辺の伸びが一尺よりいくら長くなるか,ということだった。(この計算に勾股弦の術(ピタゴラスの定理)が使われた。)勾配と角度の違いは,勾配の高さが一寸から二寸に倍になっても,角度は2倍にならないということもあるが,勾配では,直角三角形の3辺の長さの比に関心があって,辺が作る角の大きさには関心が向いていない,ということがある。


 

 ●方位は,十二支の干支で示されたから,数値化されたものでなかった。ということもあるが,磁石の干支を1200等分し,1番から1200番までの番号(つまり序数)を付けたものもある(前掲書33頁)。しかし,どちらにしろ,ある地点からの方位を,干支で示すか番号で示すかという違いがあるだけだった。つまり,ある点から一直線が向かう方向を示すものであって,ある点で交差する2直線の開き具合(角度)を数値で示すものではなかった。


 

 ●弧の長さについて言えば,角度という概念が形成された後,その大きさを数値化するときに(360度法ではなく)弧度法(ラジアン,半径に対する弧長の比)によるものであれば,角度の数値といえるが,角度という概念がないときの弧の長さは,弧の長さ以上のものではなかった。

 弧の長さを天度(360度法)で示す場合(弧度)も同じことで,円の中心の周りの中心角という概念が形成された後なら,天度がすなわち角度の数値となる(歴史的には,そうなった)が,中心角に関心が向いていないときの天度は,弧の長さ(全円周に対する弧の割合)を示す以上のものではなかった。

 天度(弧度)から角度へ,という経緯は,西洋でも同様だった。前のアーティクルでも引用したが,コペルニクスの弟子のレティクス(15141576年)は,『三角法の宮殿』(死後の1596年刊行)で,「円の弧によって関数値を決めるというそれまでの伝統的な方法をやめて,そのかわりに直角三角形の2辺の長さを取り上げている。」(ボイヤー『数学の歴史3』35頁)つまり,「直接直角三角形の角度によって三角関数を定義した。」(『カッツ数学の歴史』454頁)ということになる。


 

 ●では,江戸時代のいつ頃から,角度という概念が認識されるようになったのか。

中国の『崇禎暦書』の「割円八線表」(三角関数表)が日本に輸入されたのは,1729年だが,この書の翻訳編纂がなされたのは1629年から1634年のことで,これに協力したイエズス会士の角度の認識は,レティクス以前の天度だったようだ(要確認※これは違っていた。9月3日追記。補遺参照)。しかし,清朝最大の数学者であった梅文鼎(16331721年)の『暦算全書』(1723年)の理解は角度となっている(再確認必要※前追記より,これはこの通りとなる)。しかし,吉宗に命ぜられて,『暦算全書』に句読点・送り仮名を施した中根元圭(16621733年)や,その師建部賢弘(16641739年)の認識は,前のアーティクルで挙げた文献で見たように「天度」だった。

 江戸時代後半には,西洋の文物を利用して測天量地にたずさわる人々の間では,角度の理解は進んでいった。伊能忠敬(17451818年)の測量では角度が使われた。坂部広胖(17591824年)の『量地平三角術』における角度の理解は,天度から角度への過渡を示すものだろう。しかし,角度は洋算で初めて知る概念だから,江戸時代後半の和算家たちは,知識としては知っていたとしても,自家薬籠中の物とはなっていない。幕末の和算学習書のベストセラー『算法新書』(1830年)にも角度は出てこない。

和算家の内田理軒が,明治12年に小学校用の珠算の初歩教科書として刊行した『明治小学塵劫記』には,度数(丈・尺・寸など),量数(石・斗・升など),衡数(貫・匁など),地尺(地理に用ゆる数。里・町・間)などと並んで,「天度」が出てくる。

「天度 星学に用ゆる数。 周.十二宮を云三百六十度  宮.三十度を云  度.六十分を云  分.六十秒を云  秒.六十微を云下之にならへ  微・鑯・忽・芒. 昔時は一度を百分とし一分を百秒とす之を百分算といふ」

これで全文で,他に角度という項目はない。

明治の学制では洋算を習うことになっていて,一般の日本人は,明治になってから上等小学の「幾何」で初めて角度を知ることになった。とはいっても,下等小学4年間では「幾何」がなく,大半の人は「幾何」を,つまり角度を学ばないまま社会に出た。しかし,度量衡や面積・体積は,「幾何」ではなく,常識として知っていることになっていて,算術の問題としても出てくるから,当面困ることはなかった。

 

※(93日補遺)

『崇禎暦書』のうちの「大測1巻」因明篇第一に次のようにある。

「角以何為尺度,一弧之心在交点,従心引出線為両腰,而弧在両腰之間,此弧即此角之尺度,」

角度を弧の長さ(度数)で定義している。この定義の仕方は,明治29年の藤沢利喜太郎の『算術教科書』(168頁)の定義と同じである。(藤沢が,西洋の定義を踏襲したということだろうが。)(国会図書館近代デジタルライブラリー所収)

「弧度 一円周を三百六十等分したるものを度と称し,一度を六十等分したるものを分,一分を六十等分したるものを秒と名づく。九十度の弧を象限と称す。

 角度 弧度一度に対する円の中心に於ける角を角度の一度とす,一度を六十等分したるものを分,一分を六十等分したるものを秒と称す。」(ひらがなは原文ではカタカナ)

 

 

 

 『崇禎暦書』は1729年に日本に輸入され,全135巻のうちの「割円八線表」(三角関数表)が書写で天文方や一部の和算家の間で知れわたっていたが,「割円八線表」の刊行は幕末の1857年だった(『明治前日本数学史第341頁』)。

西洋近世の角度の概念が和算家の間で自家薬籠中の物になるには,100年近くの時間が必要だったようだ。