4に3をかける、とはどういうことか。 | メタメタの日

 小2の教科書ではじめてかけ算を教えるときは、こうなっています。(教科書によって若干の違いはありますが)

たとえば、4×3=12

(1)読み方は、「四かける三は十二」

(2)×の前の4が「1つぶんの数」、後の3が「いくつぶん」、答の12が「全部の数」

(3)×の前の4を「かけられる数」、後の3を「かける数」という。

(4)4×3の答えは、4+4+4の計算で求められる。


 大筋はこうですが、大人が気になることを以下記します。

 「四三12」という九九の読み方は、もちろん教えます。

 しかし、4が「かけられる数」、3が「かける数」だからといって、この式を「4に3をかける」と読むことは教科書では避けられているようです。この式を「4を3にかける」と読むことはもちろん、「4と3をかける」という言い方も教科書には出てきません。昨日のアーティクル で書いたように、私の見落としがあるかもしれないが、見当たりません。もちろん、私たち大人がこういう言い方をしてしまうように、学校の先生も授業ではするだろうし、子どももするだろし、して当然と思うのですが、この表現は、後述するように、よくよく考えるとよく分からないところがあります。

 かけ算を、先ず第一に、(1つぶんの数)×(いくつぶん)で(全部の数)を求める計算だ、とする教え方は、最近の傾向です。これも以前mixi「かけ算の順番を考える」トピの36番発言 で書いたように、こう変わったのは80年代前半のことで、それまでは、かけ算とは、先ず第一に、「倍すること」として導入されていた。私はそうでした。今でも、かけ算とは何かと問われると、最初に思い浮かぶのは、倍することであり、九九なのです。「1つ分の数」あるいは「1当たり量」のいくつ分を求めるのが掛け算だと言われると、へぇーと思ってしまうところがあります。

 もちろん現在でも、何倍を求めるときもかけ算の式になることは教えられていますが、先ず最初に教えられるのではない。かけ算の単元の最後か、途中になります。(教科書で違う。)

「4×3の答えは4+4+4で求められる」という教科書の表現は、4×3の「意味」が、4+4+4という同じ数の累加だということまでは主張していないはずです。つまり、かけ算を、「倍」で導入しないように、かけ算の「意味」を累加の簡約計算とはしていないはずです。しかし、4×3とは、4+4+4の「意味」であり、3×4とは、3+3+3+3の「意味」であり、したがって4×3と3×4は「意味」が違うのだから、文章問題の立式では、4×3が正しくて(○で)、3×4は間違い(バツだ)、ということはある、という指導が現在小学校で拡大しているということがネットのあちこちで問題になっているのです。


さて、ものごとの捉え方というか、語り方(構成の仕方)には、認識発展と歴史発展と論理発展の3通りがあって、かけ算についてもそれは言えます。いま上述してきたのは、主に認識発展(教育)の面から、初めてかけ算を教えるとき、教科書はどうなっているかの確認でした。

論理発展としてのかけ算(乗法)の構成は、ペアノの公理系で自然数を定義し、加法を定義し、加法から乗法を定義するようです。したがって累加で定義することになる。

歴史発展としても、かけ算は、先ず累加として生まれたことは確かなようです。

では、歴史発展としてかけ算が構成されてきた流れを加味しつつ、「4に3をかける」とはどういうことかを見ていきましょう。

江戸時代にはこういう言い方はあった。『塵劫記』(1627年初版)には、「二寸に四を掛けて八寸に成」という表現がある。

「かける」を「乗ケル」と書いている和算本もある。

しかし、「かけられる数」(被乗数)、「かける数」(乗数)という言葉は、明治時代以降、multiplicandmultiplierの訳語としてつくられた。(この点の最終チェックは、東京数学会社訳語会の論議(188082)を確認する必要があるが。)

乗数・被乗数は、現在でも一部に誤解がある(私も、なんかおかしいなと感じてはいた)が、能動・受動の関係ではない。乗数・被乗数は、扶養・被扶養や雇用・被雇用の関係とは違う。

Aが扶養者・Bが被扶養者とは、AがBを扶養するということであり、Aが雇用主・Bが被雇用者とは、AがBを雇用するということだが、Aが乗数・Bが被乗数とは、AがBを乗ずる(かける)ということではない。CがA(乗数)をB(被乗数)にかけるということである。(小学館『日本国語大辞典』の「か・ける」の項、直前アーティクル 参照)

「4に3をかける」4×3とは、かけ算をする人が4に3をかけるということだ。乗数は、扶養者や雇用主のような能動の主体ではない。乗ずる主体は乗算をする人であり、乗数も被乗数も乗ぜられる客体(受動する側)であることに変わりはない。

以上で、乗数・被乗数は能動・受動の関係でないことは分かったとしても、「4に3をかける」の「かける」とは具体的にどういう行為なのかよく分からない。

「花に水をかける」なら、具体的な行為は分かる。如雨露にある水を花の根元の土に移す行為だ。「4本の花に3合ずつの水をかける」なら、4本の花の1本ずつの根元に3合ずつの水をかける、ということだ。(4本の花)カケル(3合の水)。すると、全体の水の量は、3+3+3+3=12合となる。これが4×3の意味なのか。

しかし、これでは学校で教えることと違ってくる。

学校では、4×3とは、4+4+4のことだと教えられている。それが、4が「かけられる数」で、3が「かける数」ということだ、と。しかし、4+4+4とは、4を3個加えることだ。そして、実はこれが古代の中国で算木を使って乗算をしていたときの原初のスタイルだったと思う。つまり、4本の算木の束を3回乗せること、「4を3回乗(か)ける」ことが、「4に3をかける」ことであり、「かける数」とは「かける回数」のことだった。

直前のアーティクル で書いたが、演算を開始する初期設定は、下段に4本の算木、上段に3本の算木があり、中段が空いている。この中段に、4本ずつの算木を、上段の算木の本数回だけ置いて(乗せて)いく。乗算の結果積もった12本が乗算の答えの「積」になる。

4本を3回乗せるとき、4本の方の数を「実」と言い、乗せる回数3の方を「法」という。実はコンテンツの量を表わす数で、法はオペレーションの度数を表わす数ということになる。「かける数3」は「乗(か)ける」というオペレーションの度数を表わしていたのだ。

そして、コンテンツの量を表わす数値とオペレーションの度数を表わす数値を交換しても、答の積の数値は変わらないことを古代中国人は知っていって、乗算の九九は、総九九ではなく半九九を覚えれば良し、としたのだろう。

しかし、ここには驚くべき智慧が秘められているというか、人間の思考の抽象化していく方向を示しているだろう。

ラッセルは『数理哲学入門』(1919年)の中で、「雉の一つがいと二日とがともに数2の例であることを見出すには多くの年月を要したにちがいない。ここに含まれている抽象の程度は容易なものではない。」と述べている。人間の抽象能力は、二羽の鳥と二日を一対一対応させて、数2という概念を形成し、続いて、数3、数4、・・・と自然数の数列を生み出していった。人間の抽象能力は、物というコンテンツの量の側面に注目して数を抽象しただけでなく、働き(オペレーション)をも数として抽象化した。歩幅というコンテンツを数値にし、歩くという働きを歩数という数値にすると、数と数の乗算で歩いた道のりが分かる。これはある意味驚異的なことではなかっただろうか。

また、数まで抽象すると、物と働きは交換可能となった。数4で表わされる物に数3で表わされる働きを行った結果は、数3で表わされる物に数4で表わされる働きを行った結果とは同じになった。これはさらに驚くべきことではなかっただろうか。乗算で交換法則が成り立つことは、加算で交換法則が成りたつことの比ではなかったのではないか。


(付記)人間が数(自然数、分数、小数、平方根、立方根、負数、ゼロ)を構成したのは、物(コンテンツ)の量の側面を抽象したという理解(数教協の「量の体系」)だけでなく、オペレーションやオペレーションの結果を数として抽象したという理解も必要に思えてきた。古代中国の乗算九九表での「三四十二」は、三が法(乗数)、四が実(被乗数)だとすると、三はコンテンツの量ではなく、オペレーション(「×3」あるいは「3×」)を表わす数ということになる。(実の四はコンテンツを表わすが) 一般的には、「名数」はコンテンツ、「無名数」はオペレーションを表わすという理解は検討する価値がありそうだ。(乗数、除数の無名数だけかもしれないが)

また、分数は、連続量の単位量1の端下量というコンテンツを数値化するために構成されたという理解とともに、割り算というオペレーションの結果を表わすものという理解もある。塚本明毅は『筆算訓蒙』(1869年)で、分数の起源を割りきれない割り算の答えを表わすためだと述べていて、『和算で数に強くなる!』112ページではそうではないだろうと否定したが、再検討する価値はあるだろう。