「かける」とはどういうことか? | メタメタの日

 「かけられる数」(被乗数)、「かける数」(乗数)という用語は、日本語としてわかりにくい。

「かけられる数」の「かけられる」とは、尊敬・可能・自発ではなく受動であるだろう。では、能動の主体は何なのか? 

教科書は、4×3の式では、4を「かけられる数」、3を「かける数」としている。受動の4に能動する主体は3なのか。

「恋される女性」ロクサーヌと「恋する男性」シラノの関係であれば、シラノがロクサーヌを恋する。「斬られる兵法者」小次郎と「斬る兵法者」武蔵であれば、武蔵が小次郎を斬る、というのはわかる。

しかし、「掛けられる数」4と「掛ける数」3の関係では、3が4を掛けるというのはおかしいだろう。

 「恋する」とか「斬る」がどういうことかは分かる。では、「かける」とはそもそもどういうことなのか?

『日本国語大辞典』(小学館)」によれば、「か・ける【掛・懸・賭・架】」は、「代表的な多義語の一つだが、基本的には「AガBヲCニかける」の文型で、Aが自分の手許のBをCに委ねることを表わす。」とあり、「Cが委ねられる引き受け手から、目標の位置に退いた」ものの一つの用法の意味として、「掛け算をする」を挙げています。

計算する人(A)が3(B)を4(C)に掛けるということだろう。英語の文型で目的語が2つある場合と似ているだろう。「かける」という行為の主体は、Aであって、「かける数」Bではない。つまり、「かけられる数」4も「かける数」3も、掛け算の対象の数のはずだ。面積を求めるために縦と横の長さを掛けるときのように、どちらをどちらに掛けるのでもない場合、中国最古の数学書『九章算術』(「紀元1世紀)は「相乗」という語を使っている。また、現代中国の小学校の教科書の中には、被乗数・乗数という用語で区別せずに、両方とも「因数」としているものもある。

※だから、日本の教科書に「かけられる数」「かける数」があるから、×の記号の前後のどちらの数が「かけられる数」であり「かける数」であるかを教えようと、左側に「追いかけられる」ドロボーの絵を描き、右側に「追いかける」警官を描くという、私たちを唖然とさせた小学校の先生は何重にも間違っているのだ。「かけられる数」と「かける数」の間に、ドロボー・警官の関係のような能動・受動の関係があるわけではないということと、人物を描くときに左向きの人を描くのが「自然」なのは右利きの人の場合であって、左利きの人は右向きの人を描くのが「自然」なのに、右利きを無自覚に前提にしているのは、ポリティカル・コレクトネスの観点から不用意なのだ。※


「AガBヲCニかける」の「かける」が掛け算の意味の場合、英語は、A multiplies C by B .となるだろう。multiplyの元々の意味からは、CをBだけ倍増するということになる。

漢文では、「かける」は「乗」である。乗という計算を算木で行っていた太古の中国の方式は次のようなもののはずだ。(文献として残っているものは、すでに九九を使っているが、九九ができる前を推測すると、次のようになると思う。)

地面か机面に、3本の算木を置き、中間を開けて下に算木を4本置く。先ず1回目、中間に算木を4本乗せ、上の算木を1本取り去る。2回目、中間に算木を4本加え乗せ、上の算木を1本取り去る。3回目、中間に算木を4本加え乗せ、上の算木を1本取り去る。結局上の算木が無くなり、中間に12本の算木(あるいは12を表わす算木)が積まれている。これが3と4の乗算であり、その答えの積となる。「かけられる」数4とは、中間に「乗ぜられる」数4のことであり、「かける」数3とは、「乗ずる」回数のことになる。「乗ケル」と書いて「乗」に「カ」とルビをふっている江戸時代前期以前のものをいくつか見た記憶があるが、いま思い出せないが、珍しい例ではなかった。ともあれ、「かける数」とは「かける回数」のことなのだ。

 教科書は、4×3を「4かける3」と読み、4を「かけられる数」、3を「かける数」としている。私たち大人は、この式を見ると、「4に3をかける」とか「4と3をかける」と言ってしまうし、学校でも口頭ではそのような表現はされていると思うが、教科書の文言として、そのような表現は避けられているようだ。これも「無いこと」を断定する難しさで、今まで私が見た記憶がないだけで、あったのに見落としている可能性もある。しかし、おそらく文科省の検定で、こういう表現は許していないのではないかと思う。文科省にそういう意図があるなら、文科省は賢明だと思う。4×3「4かける3」とは、4を3回かける(乗せる)ことなのだ(4が「基準量」であれば)。「4に3をかける」のではなく、「4をかける」のだ、3回。だから、4は「かけられる数」というだけでなく「かける数」と言ってよいし、3は「かける数」というより「かける回数」と言った方が、日本語の感覚にはフィットする。

日本語では、受動表現は被害感覚で言われる以外一般的ではないはずで、「食べる物」「着るもの」とは言うが、受動の意味で「食べられるもの」「着られるもの」とは普通は言わない。これらが言われるときは可能か尊敬の意味だ。(あ、いまの「言われる」は受動の意味だが)

「掛ける」という言葉は江戸時代に今と同じ掛け算の意味で使われている。例を出すまでもないが、『塵劫記』に「二寸に四を掛ければ八寸に成」(「びやうぶに薄置つもりの事」)などとある。しかし、「掛ける数」「掛けられる数」という言葉はなかった。これも「無いこと」を断言する難しさで、私が見落としている可能性はあるが、ソロバンで計算するときに、右側に置く数が「実」であり、左側に置く数を「法」と呼んでいたから、これらが被乗数であり、乗数だった。

 被乗数、乗数という用語自体は、明治になって洋算がはいってきたときに、multiplicandmultiplierの訳語として作られた。実際、明治の数学用語の英和辞書は、multiplicandの訳として被乗数と「実」、multiplierの訳として乗数と「法」を挙げている。(『英和数学辞書』明治11年、『英和数学字彙』明治28年、『英和数学新字典』明治35年など。国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で確認できます。)

 江戸時代には、「かけられる数」は「実」と呼ばれていたし、「かける数」は「法」と呼ばれていた。

 実とはコンテンツであり、法とはオペレーションの意味だった、元々は。

 足し算は、コンテンツとコンテンツを加えることだった。4+3でいえば、4も3もコンテンツで、+がオペレーションとなる。(江戸時代には、+いう記号を含めて、そもそも記号がないが)

 足し算では足される二つの数はともにコンテンツだが、掛け算で掛け合わされる二つの数は、実と法、コンテンツとオペレーションとなる。ソロバンなら、右に置く数が実(コンテンツ)、左に置く数が法(オペレーション)とはっきりしているが、九九の口訣で、「三四12」と言ったとき、三が実なのか、四が実なのかは、はっきりしない。乗数・被乗数という概念で整理するようになった明治・大正時代になってもはっきりしていない。

 大正14年に、国定教科書が総九九を採用することにしたときに、文部省が「尋常小学算術書修正趣意書」というのを編纂して、全国の教師に配布しているが、その中に、「総九々の唱え方」という章がある。これがびっくりこいた話で、「3×2=6」という式の読み方は「二三6」と、乗数・被乗数・積の順序で読むと決めているのだ。(だから、2×3=6は、「三二6」と読むことになる。)

 その理由は、「3×2=6」という式は「3の2倍は6なり」という意味である。一方 「二三6」という九九には、「2の3倍は6なり」という意味と「3の2倍は6なり」という意味があるが、本教科書では「3の2倍は6なり」という意味にする。だから、「3×2=6」は「二三6」と読む。・・・・・・

 なぜなら、二一2、二二4、二三6、二四8、・・・という2の段の掛算九九は乗数2の場合の九九と見るのが正当だから、というのです。

 しかし、書かれている式の順番どおり読まないのですから、明らかに無理があり、昭和11年から使われた「緑表紙」小学2年生用では、現在と同じ読み方になっています。

という問題はあるが、掛け算の2つの数が、実(コンテンツ)と法(オペレーション)という違いがあるという理解は江戸時代からあった。3×4という式で3がコンテンツなら、4がオペレーション。「×」という演算のところだけがオペレーションなのではなく、「×4」というオペレーションという理解になる。「×」記号のない江戸時代では、同じ数という存在がコンテンツになったりオペレーションになったりする。

実と法とは、素材と編集ということであり、食材と料理法ということであり、両者は交換不能(「魚を焼く」と「焼くを魚する」は違うし、そもそも後者はできない)だが、算術では、実も法も同じ「数」という存在であり、交換法則が成り立つ演算の場合は、実と法を交換できる。4を3回乗(か)けることと、3を4回乗(か)けることは同じことになる。