男だって虹みたいに裂けたいのさ | メタメタの日

 福島みずほは、雨宮処凛との対話『ワーキングプアの反撃』(2007年、七つ森書館)の中で、2007年4月30日に行なわれたプレカリアートのデモで読み上げられた宣言(菅本翔吾作)を聞いて、森崎和江の「無名通信」(1959~61年)の『宣言』を思い出したと言っている。

 『宣言』の次の箇所だと思う。(福島さんの引用は、「意訳」されていました。)

「わたしたちは女にかぶせられている呼び名を返上します。無名にかえりたいのです。なぜなら、わたしたちはさまざまな名で呼ばれていますから。母・妻・主婦・婦人・娘・処女・・・と」


 そして福島は、菅本の『宣言』も、森崎の『宣言』も、「エゴイズム宣言ではなくて、『自分が自分として生きることが、より多くのみんな、普遍的なみんなとつながれる』という意味だと思うんですよ」と言い、「昔のフェミニズム」(ママ。ウーマン・リブのこと)のテーマであった「個人的なものは、政治的なものである」につながると思う、とも述べ、こう続けます。


「個人的な体験を語ることが普遍性をもち、いろいろな人とつながる。(・・・)だから、雨宮さんの体験や思いは個人的なことですが、それをごまかしたり、きれいに飾ったりすることなく、そのままボン!と出していることが、普遍性をもち、いろいろな人とつながっているのだと思います。誰かの妻とか、誰かの娘とか、誰かの母だと普遍性はもちませんので、つながれませんが、とことん個人を突き詰めることによって、いろいろな人とつながり、みんなの普遍性であると気づかせてくれると思います。」(85ページ)


 個別性を突き詰めると普遍性とつながる、ということである。

 私も1968年の夏頃、大学のバリケードの中でそんな議論をしたことを思い出す。

「自分の穴を掘っていくと、世界と通底する」と。

そういう思いは、当時の自他称ノンセクト・ラジカル共通の思いでもあったのではないかと思う。

 それから十数年後、ヘーゲルを読んだら、こういう文章に出くわした。

「抽象的な判断は、個は普遍であるという命題である。」(岩波文庫『小論理学・下』135ページ)

 よくわかりもしないのに、ヘーゲルを引用するのは、避けた方が無難だが、多分ヘーゲルがここで言っていることは、「確かに個は普遍だけど、それは抽象的に正しいだけで、中身がないんだよね」ということだと思う。

 へーゲルは、「概念」を普遍性、特殊性、個別性の3つのモメントで考えているわけです。

 特殊性とは何か。

 ここから先は、(多分)ヘーゲルと関係ないことを述べていると思うのですが、ヘーゲルのこの3つの言葉に刺激されて考えたことではあるのです。


 特殊性とは、何者かであることでしょう。男であること、日本人であること、○○会社の社員であること、などなど。何者か・である/になる・ということは、社会の中での役割を引き受けることであり、大人になることであり、自分が位置する社会を認めるということにもなるでしょう。かりに、今ある社会を認めたくないなら、それを別の社会に変えていく歴史の中に自らを位置づけ、歴史の中での・役割/責任・を引き受ければよい。そのように自己を・規定/限定・することは、ある特殊性を・引き受ける/身に帯びる・ことでしょう。

 特殊性を媒介にして個別性が普遍性とつながるという構造です。それは、個別が普遍とショート(短絡)するのではなく、特殊性を引き受けた個々人が集団的に段階を踏んで普遍性へと至る具体的な筋道となるでしょう。(カソリック教会の論理かもしれない。教会を媒介として個人は神と結びつくと。これに対し、プロテスタントは、聖書という神の言葉を通して神と結びつくことを説いたのだろうか。そして神秘主義とは、一切の媒介を拒否して神との一体化を説く思想のことかしらん。)


 個から普遍へと直結するのではなく、自分が何者か(特殊性)になること。しかし、私はこれが嫌で嫌でしょうがなかった。(ガキであったとも言える。)

 60年代後半、「自己否定」という言葉が、一部で流行りましたが、私には、これはよく分からなかった。「自己否定」という言葉には、エリート臭を感じてしまい、否定すべきほど、自分に特権があるとも思えなかった。自己否定の代わりに、私は「自己不定」をうそぶいていた。

「私に意志があるとしたら、それは、かつて何者でもなく、かつ何者にもなるまいという意志だけだ」と。ま、今となっては、勝手にほざいとけ、と自分でも思いますが。


 佐藤優氏が優秀な日本の外交官であった時、彼は、ロシアの愛国者と肝胆相照らす仲になったと言います。その理由を、佐藤氏は、自分が日本の愛国者であったからだと自己解説しました。愛する国は違えども、愛国者同士、信を置けるということでしょう。

 外交というゲームでは、各国の外交官は、自国の国益を優先して交渉をするわけです。そこでは、「人権」とか「平和」とかいう普遍的価値も、国益を外交の場で実現する(あるいは自国民を納得させる)ためのカードでしかないでしょう。それがルールで、しかし、そういうルールであることはお互い承知した上で、外交ゲームを展開する。そこでは戦争も選択肢として存在し、しかし戦争になったからといって、そこでゲームオーバーでゲーム盤が消えて無くなるわけではなく、戦争に形が変わっただけでゲームは続いていて、いつでも元の外交に戻れるし、戻る。こんなことを、もう何千年も(戦争のルールとしての国際法が確立したのは、ここ数百年としても)類としての人間は繰り返してきたが、あと少なくとも何百年かは繰り返すのでしょう。

 国家が存在し、戦争が存在してきた以上、その特殊性を媒介としないで、世界平和という普遍性には至らないということでしょう。

 そういうことを分かって特殊性を引き受ける国家官僚は、その特殊性を普遍性と錯覚してはいない。一般庶民には、特殊性を普遍性であるかのごとく錯覚させる(大日本帝国が八紘一宇という世界原理を実現するのだとか、ソ連邦は世界プロレタリアートの祖国だとか)教育をしておきながら。

 たとえば、大日本帝国の高級官僚であった森林太郎(文豪としては森鴎外)は、天皇が神でないことも、大逆事件が死刑に価する事件ではなかったことも、日本が別に特別な国でないことも知りながら、そうである「かのように」の哲学で世に処したわけです。そして、死ぬ時に遺言で、自分の墓には「森林太郎墓」以外の銘を刻ませなかった。生きていたときは信じていた振りをした一切の特殊性(称号、勲位、筆名の鴎外さえ)を振り捨て、「無名」の個に返って、死という普遍に趣いたのでしょう。

 社会の責任を担う「男」には、そういう・ロマン/気負い・がある。特殊性に自己を限定して生を全うして、最後の最後に、分かる人にだけ分かるようにして去っていく。

 国家権力側の森林太郎ばかりでなく、反国家側の革命家でも、「男」には、特殊性へと自己限定すると同時に・その底に、自己解体して世界へと通底したいという・ロマン/気負い・は共有されているでしょう。(「女」は? 女は自己限定・される/されることを拒否する・ことはあっても、自らを自己限定することは・ない/少ない・のではないでしょうか。自己限定するオレってかっこいい、という倒錯した・ロマン/気負い・に酔うことはないのではないでしょうか。)

 冒頭に挙げた森崎和江の同志だった時の谷川雁に次の詩があります。(「破船」)


 男だって虹みたいに裂けたいのさ

 所有しないことで全部を所有しようとする

 おれは世界の何に似ればよいのか