思考実験(石原都知事とホームレス) | メタメタの日

 mixiの「背理・逆説・パラドックス」のコミで、「人間は平等なら、なぜ努力するのか」というトピを立てたのですが、私の問題提起が悪かったのか、「トピの提起は、そもそもパラドックスではない」という意見が、若い人を中心にあるようです。


しかし、戦後民主主義教育(195060年代)のなかで、「人間は価値の差はなく平等だ」という「平等の強調」と、「価値の向上をめざして努力しなさい」という「努力の強調」の二つの含意を受け取り、それらは矛盾しているのではないかと感じ続けていたのです。


戦後民主主義に疑問符を突きつけた60年代末の闘争以降、学校でどういう「民主主義教育」がなされたのか、私にはまったく見当がつかないのですが、少なくとも私が感じたような矛盾を感ずることはなかったということでしょうか。


70年代から現在までの、学校の民主主義教育というのは、(mixiで「平等と努力はパラドクスではない」という主張にあったように、)平等というのは「生まれたときの平等」であって、その後の努力の差によって価値の差が生ずるのだから、一生懸命勉強しなさいという(エリート志向)教育だったのでしょうか。

もしそうだとすると、明治時代初めに福沢諭吉が『学問のすゝめ』で説いたところに戻ったということでもあるのでしょう。

むしろ、戦後民主主義教育が、戦前を否定するあまり、「立身出世主義」「エリート主義」を否定し、平等思想を、それを適用すべき範囲を超えて過剰に強調したのかもしれません。


しかし、「生まれときは平等+その後は不平等」の平等観には、やはり疑問があるのです。

この平等観でも、「死ぬときは平等」となるでしょう。(「平等」をそのように解釈された発言もあったと思います。)スタートもゴールも平等。その途中のレースでのみ価値の差が生ずる。そもそも価値というものは、人間関係という相対的な関係のなかでのみ意味があるのであって、生や死という絶対的なものを前にしたら意味はないのだ、と。

(他方、「死ぬときも不平等」という考えもあるでしょう。それまでの生の価値の差で、死後、天国に行くか、地獄に行くか、が決まるのだと。)


私は、死を前にしたら価値の差は無く人間はみな平等、という考えに同意するのですが、この考えでは、死の前の社会関係の中での価値の差にも疑問が生ずることになるでしょう。


たとえば、こういう思考実験をしてみます。

船が難破し、救命ボートにあと1人分の余地しかなく、石原都知事とホームレスの2人が残った。どちらを救うべきか。

この思考実験の肝は、都知事という社会的に有益な人物と、ホームレスという社会的に無益な人物の対比にあるのですが、ワタシ的には、石原都知事は有益であったとしても有害度が勝り、差し引きマイナスになるが、ホームレスは無益でも無害だから差し引きゼロになるから、ホームレスを救いたいところなのですが、そのような社会的価値評価は、死という絶対を前にしたら無化し、石原都知事もホームレスも「平等」なのだから、ジャンケンかコインで決めるべきだ、としか言えないと思うのです。


つまり、「死に臨んだら平等」だとしたら、死に臨んだときに背負っている社会的な価値の差も実は無いのではないか。


※ この思考実験は、応用例がきく。(1)一般人と死刑囚だったら、(2)仏陀と死刑囚だったら、(3)赤子と老人だったら、(4)生まれたばかりの赤子と瀕死の老人だったら、(4)仏陀と瀕死の老人だったら、(5)仏陀と飢えた虎だったら・・・