いじめ・思いやり・ディベート | メタメタの日

 mixiで発言している20代の人は,相手への「思いやり」を第一にしているようだ。ネットマナーを守っていて,とてもお行儀が良い。ニフティの「バトル」に慣れていた目から見ると,物足りなさを感じる。


いったい,若い人の「思いやり」はどこから生まれてきたのだろう。彼らが,小・中・高の学校生活で「いじめ」を見たり・されたり・したりしたことの反省なのだろうか。

 確かに,「思いやり」と「いじめ」には共通要素がある。

視線が相手へしか向かっていないのだ。興味・関心の対象が人間関係の外にあるものへと向かわず,関係の内部に収束している。違いは,優しい視線がもつれあっているか,ガン付け・シカト目と怯え目が絡みあっているかの違いだろう。

子ども達が「いじめ」に走るのも,若者たちがネットで「思いやり」発言をするのも,目が仲間内にしか向いていないことの裏表の表れにしか見えない。


 30歳代後半に初めて塾で,小・中学生の前に数学講師として立ったとき,視線が生徒と講師の間に行き交うのが嫌だった。講師の目も生徒の目も,数学という「真理」へ向かい,ただ講師は生徒より2,3歩前に立っているだけ,というスタンスを取りたいと思った。

教祖型・カリスマ型・金八型教師は,生徒の視線を教師自身へと集中させているようで,嫌だった。(決して真似したくなかったし,真似しようにも出来なかったが)


 ニフティで「バトル」が繰り返されたのは,目が相手に向かっていたのではなく(そういう要素もあったが),相手も自分も「論理的正しさ」を求めていて,自分達の外にある「真理」にどちらが先に到達するのか,どちらがより「真理」に近いかの競争をしていて,自分より劣後した者への罵倒を繰り返していたようだ。(傍から見るとみっともない競争だったが。)


 「バトル」は「ディベート」とも違っていた。

藤岡信勝氏が,「新しい歴史教科書を作る会」を始める前に取り組んでいたディベートは,そのやり方を聞いた時から違和感があった。あるテーマの賛成の立場になるか反対の立場になるかを,コインの裏表で決めるとか,相手の主張の論理的矛盾を突くとポイントが上がるとか…。訴訟社会アメリカの真似事ではないかと思った。


ディアレクティーク(対話,弁証法)では,相手の間違いや矛盾は,そこを突いて,自分の正しさを証明するためだけのものではなく,どうしてそういう間違いをおかすのかの根拠を探ることで,自分と相手の対立を止揚して,新しい地平へとワープできる穴かもしれないのだ。

ディベートでは勝ち負けだけが関心事だが,ディアレクティークでは勝ち負けを超えた真理へと開いている。


「いじめ」も「思いやり」も「ディベート」も,視線が内部で閉じている。窓を開けることが必要なのではないか。