お江戸史跡巡り③~一橋徳川家屋敷跡~ | はらりはらりさくら舞い散るように・・・

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今晩は。

昨日書いた記事で写真をアップし忘れてたので、再度ヤフーメールに写真を送信してアップするつもりがヤフーの不具合で使えず、通常は使わない携帯アメブロで記事編集しました。そしたら、写真のサイズが違う!しかもそこでなぜかタグ編集のボタンを押してしまったようであせる PCの画像編集が一時的に?使えない状態に。こうなると最初から全部書き直さないといけないのかな?まあとりあえず小さいままで、後ほど修正する予定なので、もしかしたら見にくいかもなのでご了承を。使い慣れてない機能はやっぱりダメですね...って話でしたダウン


さてと、昨日の続きです。


三越前から竹橋へ移動。一ツ橋徳川家の屋敷跡を見にきました。



皇居を横目に丸紅本社ビルまで歩いていきます。
この丸紅の敷地内には慶喜さんが水戸徳川家から養子入りした一ツ橋家の屋敷跡があります。


一橋徳川家屋敷跡


説明板と石碑


説明には以下のことが書かれています。

一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
一ツ橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍家となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は二世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が十一代将軍となり、水戸家より入った九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。



説明板にもある様に、後ろを振り向くと気象庁辺りまでも・・・ほんとに広い (@_@;)



そして、ビルの前の白山通りを一橋交差点の方へ歩いて行くと日本橋川に架かる一ツ橋があります。


ここも高架下なので残念な景観orz 日本橋より地味でひっそりと存在してますw しかも青い欄干に青いプレート・・・


一橋交差点の方から皇居方面を望む。


説明板がありました。


この橋を一ツ橋といい、内郷川に架かる見附橋です。徳川家康が江戸城に入ったころは、この場所に大きな丸木が一本架けられていて、その名で呼ばれていたといいます。寛永図(1624~1643)には、一ツ橋とかかれています。
橋のちかくに、松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋ともいわれたことがあります。その屋敷あとに、八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居をかまえていました。そこで橋の名をとって一ツ橋家と称したといわれています。
明治六年(1873)一ツ橋門を撤去、現在の橋は大正十四年(1925)架設、長さ19.6メートル、幅28メートル、コンクリート造り。
橋の北側、如水会館の一帯は商科大学(現一橋大学)のあった所です。
平成元年11月 千代田区教育委員会



当時の写真がWikiにあったので載せておきます。
橋の後ろにあるのが一ツ橋御門です。



そして、一ツ橋門の枡形跡 城門の石垣の跡らしき遺構があります。


せっかくの史跡も放置状態で、なんだかもったいない感じです。






☆オマケ画像


ぷぷ(^Д^)メル地蔵
メルは私が『マテ』というと『いいよ』って声をかけるまでだいたい待ってくれますが、時間かかると目をつむって地蔵になります、笑

次は会津藩上屋敷跡('-^*)/