中山道踏破 (32) 高碕宿~倉賀野宿~本庄宿 その 1 | 古城 めぐり

古城 めぐり

戦国時代を生きた人々の城を訪ねます

中山道踏破 32回目です    その1

 

新年明けましておめでとうございます

新しい年 令和二年がはじまりました。いつも同じような生活が通ずいて

おりますが一年の大きな区切りがついて新鮮な気持ちになります。

今年は いよいよ世界の皆さんをお迎えして世界に発信するスポーツの祭典

東京オリンピック パラリンピックが七月より始まります。

日本人として無事成功すること祈りたいと思います。

1月13日、14日、15日と中山道踏破 行ってきました

今年は気温も高く まずまずの天気にも恵まれ少し汗をかくような街道を

元気よく歩きました。

 

歩いた日  令和二年一月13、14、15日 天候 晴れ

距離     一日目 14時40分より 約6キロメートル

        二日目 九時より   約16キロメートル

        三日目 九時より   約10キロメートル

              計       32 キロメートル

名古屋駅発 中央線特急 信濃 八時発で出発です

 

関越自動車道 サービスエリアで休憩です

本日の昼食会場です

てんぷら そば 

到着後そばとてんぷらに火をいれるこだわりで美味しかったです

午後一時半 中山道とは離れてますが 高崎名物 達磨の達磨寺です

230段の急な階段をのぼります

霊付堂

長松寺

書院(庫裏)は高崎城に幽閉していた徳川三代将軍家光 実の弟 徳川忠長が自刃した

部屋があります。火災で焼失した長松寺は高崎城から移設した 当時のままの状態です

狩野派 絵師による天井画 八方にらみの龍

忠長自刃の部屋

 

加賀前田家と縁戚で前田家の茶屋本陣を務めた

高崎城市内

当時は井伊直政の城下町として栄えた。三国街道の分岐にもあたり交通の要衝

本町、田町、新町でそれぞれ市が立った。六斎で十八度市が立ち、絹、木綿、たばこ、紙

など取引された。お江戸みたけりゃ、高崎田町と謡われたほど賑わった。

大信寺

駿河大納言 徳川忠長のお墓がある。父親2代将軍 徳川秀忠 母親 信長妹 お市 三女

お江の 寵愛を受け世継ぎにと育てられたがこの様な結末となってしまった。

お墓の前に立ち28歳忠長の無念を思った。

死後43年延宝3年1675年4代将軍 徳川家綱のとき免罪されようやく墓石を建立

高崎城址と高崎市庁舎

高崎城乾櫓

高崎城は慶長三年1598年徳川家康の命を受け井伊直政が築城した。

当時は広大な大きさ約五万坪を誇った。幕末最後の11代 藩主松平輝照は幕命により

碓氷峠を死守するも徳川慶喜が上野寛永寺に恭順したことを知ると官軍と戦わず開城した。

高崎 アリーナ

オリンピック時はバスケットの練習場の候補とか

夕方五時をまわった 暗くなりました

本日の夕食会場

 

最後の三枚が拡大機能が出来なくなってしまいました。

一日目終了です