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来たる艱難期 第3部A パート3
艱難期の始まり (ヨハネの黙示録8章1節~11章14節 )
4.聖徒とその祈り
聖書の用語では、聖徒とはイエス・キリストを信じる者であり、
その言葉自体が、神がその人を救いの信仰の結果として、
恵みによって俗世から切り離されたという事実に注目させるものです。[1]
艱難初期の中の信者を表現するのにこれ以上に適切な言葉はありません。
なぜなら、イエス・キリストを信じる者は、この恐ろしい時に、
まだこの世にいるにもかかわらず、
霊的にこの世から切り離されていることがはっきりと分かるからです。
比較的良い時代には、信者はこの世の一部であるかのように見え、
その一部として機能していましたが、
これからの時代には、苦しみ、悪魔の攻撃、霊的偏向、
棄教の圧力が非常に強くなり、この世と部分的に共謀することは、
自分の信仰に極度の危険をもたらす場合を除いて、事実上不可能になります。
艱難期最中では、繰り返しますが、
中立でいるのはありえなくなります。
そのため、信仰を堅く守る信者は、この世で完全ではありませんが、
この世のものではない御国を持つ方に頼ることによって、
明らかにこの世から離れた聖徒としてはっきり見えるようになります。
(ダニエル11章32-35節;ダニエル7章18-27節も参照)
この箇所は、私たちの祈りが御子の犠牲を通して御父に受け入れられ、
私たちの神の御前に喜ばれる香りとなるという原則を教えていますが、
ここで問題とされている具体的な祈りは、
悪に対する裁きと神の支配による正義が地上にもたらされることと関係があります。
「主の祈り」で言えば、この祈りは後半(マタイ6章11-13節)ではなく、
前半(マタイ6章9-10節)に対応する祈りです。
なぜなら、主の模範的な祈りの後半は、私たちの個人的な状況における
三つの本質的な霊的側面(すなわち、供給(「パン」)、赦し(「負債」)、
保護(「私たちを解放する」)を扱っていますが、
前半は、救い主の千年王国において悪が裁かれて正義が確立する
神の地上支配を予期して嘆願することを扱っているのです。
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
(マタイ6章9-10節)
神に対する世界的な恐れと畏敬の思い、御子の王国の地上での設立、
そして神の「御心」である地上における支配の実現は、
悪の支配下にあるこの世界のどこにでもある悪を考えると、
歴史のどの時代の信者にもふさわしい願いと切望です。[2]
そして成長するすべての信者は、
この悪い世界で悪とその手下の反撃を直接経験するので、
私たちには、時としてこの種の祈りを行う理由があります。
(参照:詩篇94篇; 第二テサロニケ1章4-10節)。[3]
しかし、艱難期には、全世界を正し、被造物に「神の恐れ」を持たせ、
地上を直接支配し、全世界に神の正義を行うことを切望することは、
神の聖なる名を呼び続ける人々の間で、特に切実で普遍的な願いになるでしょう。
これらの祈りは、人間の世界が始まって以来捧げられてきたものですが、
艱難期を通じてその数と強度が増していきます。
神はいつもこれらの祈りに答えてこられましたが、
今、艱難期の始まりとともに、
これらの祈りに文字通り一語一句答えておられます。
これまで何度も言ってきたように、
艱難期は、メシアの再臨とその支配の栄光の日を迎えるための
「産みの苦しみ」の時なのです。
祝福の前には裁きが先に行われなければならないのです。
来たるべき王国の祝福に先立つ艱難期の神の裁きによって、
これらの祈りはすべて最終的な成就を得るのです。
小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、
また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、
祭壇の下にいるのを、わたしは見た。
彼らは大声で叫んで言った、
「聖なる、まことなる主よ。
いつまであなたは、さばくことをなさらず、
また地に住む者に対して、
わたしたちの血の報復をなさらないのですか」。
(黙示録6章9-10節)
主の再臨は、その前後に起こるすべての出来事を含めて、
これらの祈りに完全に答えてくれるものとなることでしょう。
この真実を予期することは、すべてを正してくださる方を待ち望みながら、
最も困難な7年間を忍耐強く耐えなければならない私たちにとって、
信仰の支えになり、慰めとなります。
「この[たとえ話の中の]不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
[裁判官が正しいことをするように強いられるのであれば]まして神は、
日夜[執拗な祈りのうちに]叫び求める選民のために、
正しいさばきをしてくださらずに
長い間そのままにしておかれることがあろうか。
あなたがたに言っておくが、
神はすみやかにさばいてくださるであろう。
しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
(ルカ18章6-8節)
上記の主の極めて直接的なお言葉に照らせば、
私たちは、何が起こるかわからない事態に備えて前もって自らを奮い立たせ、
この邪悪な世界とその邪悪な管理者に対するすべての不満を神の御手に委ね、
最終的には主ご自身の御手によってすべての問題が適時に解決されることを
揺るぎない信仰をもって信頼すると自分自身に誓う必要があります。
もちろん、これはどのような時にもクリスチャンにとって常に正しい態度であり、
正しいアプローチです。
艱難期の強い圧力と迫害を受ける者にとっては、なおさらそうでしょう!
たとえそのような圧力がどれほど圧迫的で歯がゆいものであったとしても、
救済と正義を求める私たちの祈りは、
天の御座の前で燃える香の甘い香りのように立ち上り、
イエスが私たちのためにしてくださったことによって(詩篇141篇2節)
有効で受け入れられるようになったことを、
私たちは心に確信をもって知っているからです。
[1] 特にペテロの手紙シリーズ#8「選びの結果」と#13「聖化」を参照してください。
[2] 『悪魔の反乱』参照: 第4部「サタンの世界システム」をご覧ください。
[3] いわゆる 「不敬の詩篇 」と呼ばれるものはすべて、
その根底にあるのは、全能の神に悪と悪人を裁いていただくという、
まさにそのような呼びかけであり、信者自身の手を離れて神に委ねる、
有効かつ適切な祈りなのです(同様に私たちも常にそうすべきなのです)。
--パート4に続く
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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想、またオーディオクラスに関心のある方、
shizuku365@proton.me までご連絡ください。
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わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、
あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
(詩編94:19)
感謝します
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新潟の実家の兄から、ツツジの写真が送られてきました
生前父が植えたものです
6月になると、スケッチブックのページをめくるように
今度は紫陽花で埋め尽くされます
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こちらは、
ツツジが終わったと思えば
薔薇の花が咲き始めていますね
いつも、そこに
慰めがあることを感謝します
薔薇の香り
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ランちゃんは大喜びでグルグル走り回りますランランラン
そんなに走り回ったら、目がまわっちゃうよ~
また来るね
今日もありがとう~