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ペテロの手紙シリーズ#17A
キリストに倣う
キリストに倣(なら)うためには霊的成熟が必要です:
キリストに倣うには、イエスが歩まれたように歩むことが必要です。
キリストに倣うことは霊的成熟なしには達成できず、
霊的成熟は聖書の徳を深く理解し、
持続的に適用することなしには達成できません。
徳とは、真理を抽出し、個人の生活に適用したものです。
聖書の真理について私たちが知っていること、理解していること、
信じていることはすべて、習慣化された思考パターンにまとめられなければなりません。
成熟に到達し、高潔な思考と行動の人生を達成するというこの目的において、
私たちは一人取り残されているわけではありません。
神は私たちを助けるために広範な支援システムを備えておられ、
それは私たちが教会のあらゆる面から受ける支援に限定されるものではありません。
私たちはまた、私たちの師であるイエス・キリストの高潔な生活という、
従うべき詳細な型も与えられています:
こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、
だまし惑わす策略により、
人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、
もてあそばれたりすることがなく、
愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、
かしらなるキリストに達するのである。
また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、
しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、
からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
(エペソ書 4章14-16節)
私たちの模範であるキリスト:
クリスチャン生活、クリスチャンの歩みは、
神の御言葉に教えられた徳によって特徴づけられるべきです。
私たちは、愛はこれらの徳のすべてを体現するものであり、
完全な愛の生活は必然的に完全に徳の高いものになると述べました。
私たちの主イエス・キリストの生涯はそのようなものでした。
主イエス・キリストは、この地上におられた間、神の愛を体現し、模範とされました。
そして、私たちが直面するのと同じ人生の困難に直面しながらも(ヘブル4章15節参照)、
ご自身の模範によって、私たちの模範となるべき型、
すなわち、私たちがそれに従いさえすれば、
神に喜ばれる徳の高い人生へとまっすぐに導かれる足跡を示されたのです。
(第一ペテロ2章21-25節: 参照:マタイ16章24節; ヨハネ13章15節)
聖書はイエス・キリストについて書かれたものであり(ヨハネ5章39節)、
イエス・キリストという神の贈り物によって示された神の愛について書かれたものです。
(ヨハネ3章16節)
この意味で、聖書のどのページにも神のご性質とキリストの愛が反映されているのです。
これまで見てきたように、霊的成長とは変容のプロセスであり、
そのプロセスの理想的な目標は、
私たち一人ひとりの内にイエス・キリストの人格が形成されることです。
そのためには、私たちは「キリストに倣い」(第一コリント11章1節)、
キリストが「私たちの心に住まわれる」(エペソ3章16-17節)まで
「キリストを着る」(ローマ13章14節)必要があります。
これらの各箇所の文脈は、キリストの人格の再現が、
私たちがこれまで論じてきた私たちの思考の変容と一体のものであることを示しています。
第一コリント11章1節では、「キリストに倣いなさい」という命令は、
自己犠牲、つまり、他者の霊的な進歩のために
自分よりも他者に配慮するという文脈で与えられています。(1コリント10章23-33節)
ローマ13章14節の「キリストを着なさい」という命令は、
私たちが霊的な「歩み」をまっとうに行うことができるように、
罪の性質の悪徳を拒絶するという文脈で与えられています。
最後に、キリストが「私たちの心に住む」ようにという
パウロの祈り(エペソ3章16-17節)は、「信仰によって」成し遂げられるものであり、
私たちがまず「聖霊によって内なる人の内面が強められる」ことが前提です。
私たちの主の品性を模倣することは、私たちが主と同じように考え始め、
自分自身よりも他者の霊的な福祉を優先し、罪の性質の主張を拒絶し、
御言葉と神の御霊に私たちの力を求めるときにのみ可能となるのです。
謙遜における私たちの模範であるキリスト:
もし私たちが真剣に自分の考え方を改めようとするなら、
最初から身につけるべき考え方のパターンの一つは謙遜です。
「キリストに倣う」(第一コリント11章1節)ためには、
キリストが持っておられたのと同じ謙遜な考え方を身につけなければなりません。
高慢とは、他のすべての事柄よりも自分を優先させることで、
サタンとアダムの原罪です。(イザヤ14章13-14節; 創世記3章6節)
高慢、すなわち傲慢は、謙遜の美徳と密接に関連する、
愛と他者への配慮という自己犠牲の対極にあるものです。
謙遜は、私たちが維持するように命じられている美徳の心構えであり、
この態度の模範は私たちの主です:
キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、
あなたがたの間でも互に生かしなさい。
キリストは、神のかたちであられたが、
神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。
その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、
しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
(ピリピ書 2章5-8節)
キリストの謙虚で愛に満ちた犠牲を示すパウロの模範は、
私たち自身のちっぽけなエゴが日々耐えている侮辱を、視点を変えて考えさせてくれます。
傲慢(その語源によれば)とは、
自分に権利のない名誉や配慮を要求することを意味しますが、
キリストには神として扱われるあらゆる権利がありました。
しかし、愛のゆえに、私たちのために奴隷となり、
私たちの身代わりとなって死ぬために、ご自分を自らに差し出されたのです。
主に従うことを信じるクリスチャンとして、
私たちはキリストのように「高潔な思いをもって」、
謙遜の視点を維持しなければなりません。
他人のために命を捧げることを求められることはないかもしれませんが、
少なくとも、キリストは自分のためだけでなく、
すべての人のために死んでくださったという視点を持ち続けるようにしなければなりません。
私たちの羊飼いの長が同胞である信者たちのために命を捨ててくださったのであれば、
私たちは少なくとも寛容と赦しをもって彼らに接するべきではないでしょうか。
利己的な態度ではなく、他者に奉仕する態度は、徳の思考プロセスに必要な要素です。
謙虚さは、成熟した信仰者の思考を特徴づけるべき徳や態度の一つです。
謙遜さがなかったり、傲慢さがあったりするのは、
真理の原則に集中しておらず、キリストに倣っておらず、
徳のある考え方をしていない証拠です。
試練におけるキリスト:
私たちが自分の考え方を変えることによってライフスタイルを変えようとするとき、
悪魔とその手下たちは、私たちが踏み出した積極的な一歩を
そのまま許すことはないだろうということを心に留めておくべきです。
キリストが荒野でサタンから持ちかけられた誘惑に聖書の原則で応えられたように
(マタイ4章4-10節)、私たちも同じことをする用意ができていなければなりません。
それは、人生のあらゆる緊急事態に対応するために
特定の聖句を見つけなければならないということではなく、
むしろ、主の模範を通して私たちが見習うことを学んだ積極的な美徳を中心に
思考を集中させるこの習慣が、キリストがそうであられたように、
試練の時にも私たちをしっかりと支えてくれるということです。
さらに、試練や誘惑には常に二つの要素があります。
「プレッシャーをかけてくる」外的な出来事や刺激と、
サタンが私たちを陥れるためにいつも協調しようとする昔ながらの一味、
私たち自身の内なる罪の性質です。
すべての信者の人生に降りかかる試練に合格し、誘惑に打ち勝つことは
(実際、霊的な前進の不可欠な部分です)、少なくとも二つの観点から見るべきです。
第一に、困難な試練をうまく切り抜けることは肯定的なことであり、
他のことをするようにというプレッシャーにもかかわらず主に従うことです。
第二に、このような行動は、神の御心に反するすべてのことを
必然的に支える罪の性質を否定し、打ち負かすことでもあります。
もし私たちが「キリストを身に着け」(ローマ13章14節)、
荒野でキリストがなさったようにするなら、
同時に、神のみこころではなく私たちの欲望に従うように私たちに命じる古い人
(罪の性質)を「脱ぎ捨て」なければなりません。(コロサイ3章9-10節)
神の御言葉の真理に集中することを学ばなければなりません。
神が私たちに、学んで使うようにと望まれている真理の原則を通して、
自分たちの経験を解釈することを学ばなければなりません。
荒野でサタンが主に問題を投げかけて混乱させようとしたように、
サタンは私たちを真理から遠ざけるために、混乱させ、誘惑し、
方向感覚を失わせる誘惑や困難に満ちた世界全体のシステムを開発しました。
キリストは、御言葉と御父のみこころに完全に集中することによって、
その試練を乗り越えられました。
荒野で悪魔の誘惑に遭われたときも、
サタンの投げかける試練に真理をもって答えられました。
私たちが試練の時に主に倣うためには、私たちも同じようにしなければなりません。
与えられた状況に真理をもって答えるためには、
もちろん、まず真理の原則を考えなければならないのです。
困難に直面したとき、すぐに聖書に頼ることができるとは限りません。
私たちが悪魔の世界でクリスチャンとして日々効果的に機能するには、
神の真理をいつでも使える形で頭の中に入れておかなければなりません。
私たちは常に聖句の徳(正しい行動や態度の原則)に
集中する習慣を身につけなければなりません。
キリストを心に:
「内なる人が強められ」て初めて、私たちは内なる主に集中し、
主が本当に「私たちの心に住んでおられる」(エペソ3章16-17節)
と言えるようになるのです。
この強化のプロセスは(エペソ3章が教えているように)「信仰によって」、
「聖霊」の助けによって達成され、
「愛」という土台の上に成り立っています。
その順序は明らかです。
(神の助けによって)信仰と愛が成長することによって、
キリストが私たちのすべてとなるまでの内的成長のプロセスが促進されるのです。
したがって、自己の内面を強化することは、徳を高め、集中し、
実践することと切り離しては考えられないのです。
そうして初めて、使徒パウロのように、キリストが私たちの地上生活の中心にあって、
世を去って主と共になることはただ益を意味する(ピリピ1章21節)という境地に
到達することができるのです。
神が私たちに望んでおられるようなクリスチャンになるためには、
私たちの目をますますしっかりとイエスに向け、
私たちの師の徳の高い歩みと生活に近づくために、成長し続けることが必要なのです。
--ペテロ#17Bに続く
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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
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霊的に成長するには、まだまだ足りない者ですが
この事だけは最期まで忘れずにいたい者です
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、
御子によって世が救われるためである。
(ヨハネの3:16―17)
感謝します
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昨日から雨が続いていますね
一昨日のウォーキングで、今年は桜が少し遅いかな・・・と感じました
でも、
ユキヤナギが綺麗に咲いています
あっちも、こっちにも、咲き始めたよ・・・・あれ
キミもここで眺めていたのね
この子はリードを長くしてもらって、
お庭で自由に遊べるようにしてもらってるのね
また来るね
今日もありがとう~