からの続きです
Ⅱ.小羊と巻物 第2部B: パート21
勝利の子羊:
これらの天の驚異、人間の耐久力や肉体の限界を超えるほど強烈な栄光を目の前にした
ヨハネの興奮を、私たちはほとんど想像することができません。
(ダニエル8章27節,10章7-11節と黙示録19章10節,22章8-9節を比較してください)。
ヨハネとすべての信者が待ち望む唯一の最終的な栄光ある光景は、
神の小羊、すなわち、勝利し、復活した主イエスが御父の右に立っているのを見ることです。
私たちの主は、ここで「ユダ族の獅子」、「ダビデの根」、「殺された小羊」
と表現されています。
主が誰であるか、そして私たちのために何をしてくださったかを象徴する重要な称号です。
最初の二つの称号は、彼がまがいもなっく王族であり、
例外的な血統を持つ者であることを強調し、
(それぞれ創世記49章9-10節とイザヤ11章1節を比較)それによって、
彼が間もなく地上に戻り、来るべき王国を引き継がれて、
神の民イスラエルに対するすべての神の約束が成就することを予見させるものです。
しかし、ここで最も強調されているのは「小羊」という称号と描写です。
この称号が繰り返され、(この章で4回)
私たちの主イエス・キリストが小羊として現れ、
しかも「ほふられた」ものとして描写されていることから、
私たちのために犠牲の死を遂げて、
疑いもなく世界を治める権利を勝ち取られたことが象徴的に表現されています。
イエスは「世の罪を取り除く小羊」であるからです。
(ヨハネ1章29節, 1章36節; 第一ペテロ1章19節;イザヤ53章7節参照)
旧約聖書のすべての犠牲が予表するお方ですから、
「小羊」は、主について、また主の救いの業、
主が私たちと全世界のために捧げた命についての完璧な描写です。
実際、旧約聖書のすべての動物の犠牲は、私たちの主の十字架上の死を語っています。
シミや傷のない小羊は主の完全な人柄を表し、
犠牲として流された血は主の完全な業を表しています。
(私たちが永遠の命を持つために、不正な者のために正しい者が
十字架上で死ぬことを望まれたこと)
ですから、私たちがイエスをこの世に「現す」こと、
イエスの栄光の帰還と世界の支配者としての戴冠式(とそれに先立つ激変の出来事)
についてこの書を学ぶにあたり、
この支配の権利が最大の犠牲を払って勝ち取られたことを覚えることが重要です。
イエスは真の人間としてこの世に生まれ、
誰も直面したことのないような激しい反対勢力の中で全き道を歩まれ、
悪から世界を取り戻し、悪魔の死の支配から私たちを勝ち取るために、
私たちの代わりに苦しみ、死ななければなりませんでした。
(コロサイ1章13節; ヘブル2章14-15節; 第一ヨハネ3章8節)
キリストの復活と昇天の後、父の右の座につかれたことは、
キリストの勝利の完全性を疑いもなく示し、
(コロサイ2章13-15節;エペソ4章7-10節も参照)
その勝利に対して父が承認されたことを示します。
(コロサイ1章19節;以下の節も参照のこと:
イザヤ42章1節,49章6節;マタイ3章17節, 17章5節参照)
そしてその勝利の結果、世界の支配者として正当な地位を得るために、
主が戻ってこられることが差し迫っているのです。
(詩篇110篇1節;マタイ28章18節; ヨハネ17章2節;ローマ16章20節;
第一テサロニケ4章16-17節; ヘブル1章3-4節,2章8-9節)
(11)こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、
たびたび同じようないけにえをささげるが、
それらは決して罪を除き去ることはできない。
(12)しかるに、キリストは多くの罪のために
一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
(13)それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
(ヘブル10章11-13節)
したがって、イエスはここで「ほふられた」小羊(犠牲の象徴)として登場しますが、
まだ生きているという事実は、イエスの復活の現実を証明し、
同時に罪と死に対するイエスの勝利を力強くもの語っています。
(第一コリント15章54-57節; イザヤ25章7-9節;ホセア13章14節;
さらに、小羊に象徴される七つの角と七つの目は、小羊の来たるべき支配の強力な象徴です。
角は支配のための力の完全性を意味し、
(申命記33章17節;詩篇18篇2節,112篇9節;ゼカリヤ1章18節参照)
七つの目は支配のための聖霊による力の完全性を意味します。
(イザヤ11章1-3節,42章1-4節; ゼカリヤ4章1-10節; ヨハネ3章34節参照)
ですから、これはヨハネが見ている犠牲の小羊であるだけでなく、(普遍的な罪と死に基づく)サタンの世界支配の力をすでに破壊した勝利の小羊でもあります。
そして、その世界支配を悪魔から永久に取り去ろうとしているのです。
(ヘブル2章14-15節; ルカ10章18節;使徒行伝26章18節;ローマ16章20節参照)
彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、
小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。
また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。
(黙示録 17章14節)
第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。
すると、大きな声々が天に起って言った、
「この世の国は、〔今〕われらの主とそのキリストとの国となった。
主は世々限りなく支配なさるであろう 」。
(黙示録 11章15節)
この象徴としての小羊の姿が用いられていること
(黙示録1章12-16節に見られるキリストの真の姿と対照的)は、
預言的な旧約聖書の箇所にも、
(例えば、ダニエル4章9-18節,7章2-14節, 8章1-12節; ゼカリヤ1章18-21節, 5章5-11節)
よく使われる手法で、黙示録の中でもそうです。
(例えば、イスラエルを表す女:黙示録12章1-6節;
反キリストを表す獣:黙示録13章1-8節;
バビロンを象徴する淫婦: 黙示録17章1-8節)
キリストを象徴する小羊の絵は、御子の犠牲、御父に受け入れられること、
そしてこの犠牲と十字架上の救いの業によって、巻物を取り、
世界の支配者となるにふさわしいお方であることを、いっそう効果的に印象づけるものです。
また、小羊が御座の中央に「立っている」と言われていることも重要です。
主のこの姿勢は、艱難の開始が差し迫っていることを表しています。
父なる神が、御国の準備のための最後の審判の期間が始まるまで
「わたしの右に座すように」と言われたにもかかわらず、
キリストが今立ち上がったのは、悪者とその手下すべてを制圧するプロセスが
始まろうとしていることを示す決定的なしるしなのです。
ダビデの歌 主はわが主に言われる、
「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とする[とし始める]まで、
わたしの右に座せよ」と。(詩篇110篇1節) [1]
(19)だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、
悔い改めて本心に立ちかえりなさい。
(20)それは、主のみ前から慰めの時がきて、
あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリスト〔メシア〕なるイエスを、
神がつかわして下さるためである。
(21)このイエスは、神が聖なる預言者たちの口をとおして、
昔から預言しておられた万物更新の時まで、
天にとどめておかれねばならなかった。
(直訳では:「天が受けなければならない方であった」)
(使徒行伝 3章19-21節)
私たちの主の十字架での勝利は、疑問の余地のない権威を確立し、
その最高の権威は父の右の座で確認されました。
(マタイ28章18節; ヨハネ14章2-3節;エペソ1章20-23節;
ピリピ2章9-11節;コロサイ1章13-20節, 2章15節;
キリストは着座され、(使徒行伝2章32-36節, 5章30-31節;
囚人は解放され、(詩篇146篇7節;イザヤ14章17節, 42章7節,49章9節,61章1節;
賜物が与えられました。(詩篇68篇18節; ヨハネ16章7節; エペソ4章8節)
もはや小羊が巻物を取り、印を解くことだけが残されています。
これによって悪魔の地球の支配の最終期間が始まり、
そして、すべてのクリスチャンが待ち望んでいる祝福の出来事である栄光の王の再臨
(黙示録17章14節)で劇的な終わりを迎えるのです。
(マタイ6章10節; 第一コリント1章7-8節, 16章22節;第一テサロニケ1章10節;
キリストが御父の右手(主が今座っておられる側)から巻物を取るのも、
ヨハネに見る特権があり、私たちも読む祝福がある未来の出来事です。
この出来事もまた、艱難の始まる直前に起こります。
(この文章を書いている時点ではまだ未来の出来事です)
小羊がよみがえり、巻物を手にしたら、あとはこの黙示録の巻物の神勅を開くだけであり、
これにより艱難期の出来事を始動させるのです。
新しい歌:
「新しい」歌とは、特別なときに作られる賛美と礼拝の歌です。
(詩篇33篇3節; 40篇3節;96篇1節,98篇1節,144篇9節,149篇1節;イザヤ42章10節)
獣によって殉教死することになった14万4千人のユダヤ人の証人の賛歌(黙示録14章3節)
と同様に、この歌も特別なときを記念する歌なのです。
天上の聴衆が期待して見守る中、天使の最高位である四つのケルブと二十四人の長老が、
メシアの王国の到来を記念して、特別な就任の賛美歌を歌い始めます。
- 天使の支配者たちの合唱: <新しい歌の>第一節はケルビムと24人の長老たちだけで歌われます。第一節目は、小羊が犠牲の死によって(堕天使に代わって置き換えられる)教会を贖ったので、歴史の最終局面を開始する(巻物を開く)価値があることを強調しています。[2]
「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。
あなたはほふられ、その血によって、神のために、
あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。
彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
2.聖天使の合唱: 第二節は、他の選民の天使たち(ケルビムと長老を除く)
によって歌われます。
第二節目では、小羊の価値と巻物が開かれた(つまり終末の時代が始まった)
ことの効果、つまり全世界の権威とそれに伴うすべての栄誉が強調されています。[3]
「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、
さんびとを受けるにふさわしい」。
3.頌栄歌(しょうえいか):この「新しい歌」の最後の部分(天使の聖歌隊による演奏)は
特に頌栄の形で、父と子への賛美を歌っています。
「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、
世々限りなくあるように」。
この賛美歌に続いて、四つの生き物が「アーメン!」と言いながら、
これらの事実の真実と祝福を最終的に宣言します。
(ヘブル語で「真に」「真実に」を意味する言葉)
そして、長老たちはひれ伏し、御父と御子を礼拝します。
この天上の賛美の詩篇は、激しい艱難期に始まり、ハルマゲドンの脱穀場を火で清め、
千年王国の支配が終わりを迎える歴史の終わりに、すべての敵を焼き尽くすという、
歴史の最終段階を始めるのに小羊がふさわしいことを宣言しています。
この裁きの全ては正しく、主の十字架の勝利に裏付けられています。
主はあなたや私のために火をくぐるような試練を通過されたのです:
(49)わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、
わたしはどんなに願っていることか。
(50)しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。
そして、それを受けてしまうまでは、
わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
(ルカ12章49-50節)
[1] ヘブル語の不完了体と前置詞'adh, עדの組み合わせは、
この場合、事前の完了を要求するのではなく、プロセスの開始を可能にします。
(すなわち、「あなたの敵があなたの足の台となるまで座っていなさい」)
メシアは、すべてが解決するまで天国で受動的に待つように言われているのではありません。
ですから、キリストが艱難時代に直接参加されること
(最も顕著なのは、ハルマゲドンで反キリストの軍隊を個人的に滅ぼされること)は、
この箇所と何ら矛盾するものではありません。
[2] 「悪魔の反乱: 艱難期の序章: 第3部 人間の目的、創造と堕落」、
第I.2項「サタンとその天使に取って代わるために創造された人間」を参照ください。
[3] ここでは、最良のギリシア語テキストの訳がなされています。ほとんどの翻訳では、
(あまり権威のない写本に基づいて)天地創造を聖歌隊の役割と誤って位置づけています。
しかし、実際には、被造物全体を、主が支配されようとしているものとして表現しているのです。
--パート22に続く
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(2017年3月ももちゃん)
今日もありがとう~