からの続きです
Ⅱ.小羊と巻物 黙示録5章1-14節 パート20
黙示録5章1~14節
(1) わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。
その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。
(2)また、ひとりの強い御使が、大声で、
「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」
と呼ばわっているのを見た。
(3)しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、
ひとりもいなかった。
(4)巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、
わたしは激しく泣いていた。
(5)すると、長老のひとりがわたしに言った、
「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、
その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。
(6)わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に
ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。
それに七つの角と七つの目とがあった。
これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
(7)小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
(8)巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、
おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。
この香は聖徒の祈である。
(9)彼らは新しい歌を歌って言った、
「あなたこそは、その巻物を受けとり、
封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、
神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
(10)わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。
彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
(11)さらに見ていると、御座と生き物と[二十四人の]長老たちとのまわりに、
多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。
その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
(12)大声で叫んでいた、
「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、
栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
(13)またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、
そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、
「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、
世々限りなくあるように」。
(14)四つの生き物はアァメンと唱え、[二十四人の]長老たちはひれ伏して礼拝した。
ヨハネは4章で、神の天の神殿での輝かしい光景を詳しく説明しました。
第5章は、艱難期への天の前奏曲、つまり、メシアであられる方、
私たちの主イエス・キリストによる、地上の神の直接の支配が艱難を通して
再び確立されるプロセスの始まりです。
この黙示録はイエス・キリストについてであることを忘れてはいけません。
(すなわち、世に対して主の「顕現」を承認し、表明し、そしてもたらすもの)
ですから、この天の情景の描写において、最後に主が紹介されるのは、
これから起ころうとしているすべてのこと、
すなわち、主の再臨に先立つ出来事を強調するため、ふさわしいことなのです。
メシアが全地上の権力を握る前段階として、
「本」または巻物を開くことによって艱難期が開始されるという上記の記述は、
ダニエル書7章にある同様の記述(ダニエル書の四獣の幻の後にあり、
最後の獣は反キリストの王国を表す)と非常によく類似しています。
(9)わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者
(すなわち、父)が座しておられた。
その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。
そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。
(10)彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、
彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、
かずかずの書き物が開かれた。
(11)わたしは、その角[反キリスト、8節参照]の語る
大いなる言葉の声がするので見ていたが、
わたしが見ている間にその獣は殺され、
そのからだはそこなわれて、燃える火に投げ入れられた。
(12)その他の獣はその主権を奪われたが、
その命は、時と季節の来るまで延ばされた。
(13)わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、
天の雲に乗ってきて、
日の老いたる者(すなわち、父)のもとに来ると、その前に導かれた。
(14)彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。
その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、
その国は滅びることがない。
(ダニエル書 7章9-14節)
この箇所では、ダニエルが艱難時代の終わりに焦点を当てているにもかかわらず、
ヨハネの黙示録第5章と(ここでは、その開始直前の場面)
多くの重要な類似点が見出されます。
1.父なる神様の出現も同じように描写されています。
どちらの箇所でも、父なる神はすべての人の支配者、審判者としての立場で、
「御座に着いて」おられます。
このことは、両節の出来事が、司法的あるいは王権的な宣言であることを強調しています。
歴史に対する神の支配と対処が明確に示されています。
2.天使の宮廷も同じように描写され、
その数え切れないほどの数がほぼ同じように表現されています。
両方の箇所に複数の「王座」が言及されていますが、
ダニエル書の箇所では、この特別な機会に「設置」されていることから、
上で述べたように、天使の長老たちの会議は継続的な状況ではなく、
艱難期とそれに続く再臨の特別な前段階であることが分かります。
3.出来事の推移も比較できます。
どちらの場合も、書かれた記録が重要な位置を占め、その書物や巻物には、
付随する裁きの根拠となる神の決定が書かれています。
(大洪水に先立つ類似の状況:詩篇29篇10節と比較してください)
メシアが権力を握る前の裁きは、
迫害された神の民の正当性を擁護するために行われるという事実も平行しています。
(ダニエル7章22節と黙示録15章1-2節を比較してください)。
4.御子の姿と表現が似ています。
(ただし、ダニエルの幻には、ヨハネの幻の時点ですでに歴史的に起こっていた昇天と、
サタンに対する裁きに伴う火の池が混在しています)
5.最終的には、メシアに地上の支配権が与えられるという点で、両者の結末は同じです。
この二つの聖句の類似点の重要な部分は、
(もちろん、ダニエル書と黙示録の間に見られる類似点はそれだけではありませんが)
両書において、地上とそれを支配する悪の勢力に対する神の摂理的・司法的裁きの過程が、
メシアの帰還とその普遍的支配の確立に不可欠な前段階・前提条件になっている点です。
簡単に言えば、
黙示録とダニエル書は、艱難期が「イエス・キリストの現れ」の一部であり、
栄光の王国の不思議な誕生に先立つ裁きの「産みの苦しみ」
であることを明確に教えています。
(4)そこでイエスは答えて言われた、
「人に惑わされないように気をつけなさい。
(5)多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、
多くの人を惑わすであろう。
(6)また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。
注意していなさい、(これらの知らせによって)あわててはいけない。
それは起らねばならないが、まだ(艱難期の)終りではない。
(7)民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう(すなわち、南部同盟に対する北部連合)。
またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
(8)しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
(マタイ24章4-8節)
巻物:
黙示録が書かれた当時、本はまだ発明されていなかったので、[1]
ここで「本」(ギリシャ語でビブリオン, βιβλίον、「聖書」の語源)という言葉は、
実際には巻物または筒状に巻いた物です。
この巻物は黙示録を表し、その内側と外側の両方に文字が書かれていますが、
これは艱難期の出来事の激しさを示しています。(エゼキエル2章9-10節を参照)
この点で、艱難期が二つの部分に分けられ、
そのうちの第二の部分が(裏面<七年間の艱難期の最後の三年半>)
より困難であることを象徴していると考えるのは正しいかも知れません。
(パピルスの裏面の生地の繊維の流れ目は筆記者の手の動きと直角に走るので、
常に書くのが困難でした)
ここで非常に重要なのは、本や巻物が読まれないようにする七つの封印です。
地上の文書では、このような蝋(ろう)の封印には、文書の著者の印鑑が押されており、
それによって文書の真正性が確認されると同時に、不正な改ざんを防ぐことができました。
もし、その文書が遺言書などの法的な遺産の贈与であれば、
この封印が正当な権威ある方法で解かれないと、何もできないのです。
私たちの救い主である小羊は、その死によってもたらされた勝利によって、
適切な時期にこれらの封印を解く権利を獲得し(ダニエル12章4節,12章9節)、
この命令の内容、すなわち、すべての敵が「御足の台」となる過程である艱難期という
中継イベントを通って御国の確立を実現させるのです。(詩篇110篇1節)
この命令が実行される前に開かれなければならない七つの封印については、
二つの象徴があり、個別的に一つひとつの封印が解かれることによって
解放される個別の事象を表し、集合的にはそれを抑制している力、
すなわち聖霊なる神を表しています。
前者(封印が解かれることによる「効果」)については第Ⅳ項で、
後者(聖霊の抑制の働き)については第Ⅲ項で考察することにします。
ヨハネの反応:
ヨハネは、封印された書物が開かれなければ、
永遠の救いも現世の解放もないことを知り、涙を流しました。
しかし、主イエスがその本を開くために必要な代価、
つまり全世界のために死んで霊の命を支払われたので、泣かないようにと言われます-
それが、主イエスへの信仰による私たちの赦しと永遠の命の基礎となるのです。
[1] 現在、私たちに馴染みの深い本の形の写本は、聖典の完全なコピーを一冊で提供するために、
キリスト教徒によって発明された(あるいは、少なくとも注目されるようになった)
可能性は十分にあります。
Peter Katz, "The Early Christians' use of Codices instead ofrolls", JTS 44 (1945) 63-65.
--パート21に続く
----------------------------------------------------------------------
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
日々のデボーションの為には【休息と癒し】のサイトに毎日掲載されている
過去記事の「ひとしずく」も、どうぞお役立てくださることをおすすめします
はじめての方へ | 休息と癒し (kyusokutoiyashi.jp)
![](https://i.ytimg.com/vi/zcE25X8xIx0/maxresdefault.jpg)
「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp
私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想、またオーディオクラスに関心のある方、
shizuku365@proton.me までご連絡ください。
*:..。o○☆゚・:,。*o○☆:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
黙示録4章の天の前奏曲から、5章の子羊と巻物に場面は移り
旧約聖書のダニエル7章との類似について紹介しています
このことひとつを見ても、聖書の一貫性と、
過去、現在、未来という壮大なスケールで見ることが出来ますね
そして、神様の愛がどれだけ深く、
私たちに語り続けておられること知ることが出来ることを
感謝します
*:..。o○☆゚・:,。*
昨日、兄から蕗の薹が届いたので、お礼の電話をすると
母と同い年だった幼馴染のおばさんが(母の兄の奥様でもある)
天に召されたという知らせを聞きました(3月11日夜)
96歳でした
偶然か、前日、急におばさんの事が懐かしくて話していたばかりだったのに・・・
何年か前に、このおばさんの事を記事に書いたこともあるくらい
私はおばさんの事が大好きでした
子供の頃、騒がしくて忙しい家にいるより、おばさんの家に泊まりに行くのが好きで
山できのこを採ったり、畑で野菜を採ったり、花を摘んだり、・・・・
静かで優しい時間を過ごすことができました
私がイエス様を受けいれたときも、周りの人は皆反対したけど
おばさんは、静かに私の話を聞いて、耳を傾けてくれた唯一の大人でした
そして、「いつか会えるかね?」と言ってくれました
おばさんの言っている意味は、”死んでも会えるか?”ということだったのです
「おばさんの為に祈ります。いつか会えるように!」と答えました
おばさんの魂をイエス様に委ね、
お祈りします
*:..。o○☆゚・:,。*
(2017年3月ももちゃん)
今日もありがとう~